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『歎異抄』を聞く(その11) ブログトップ

神話 [『歎異抄』を聞く(その11)]

(3)神話

 神話的な説き方で思い出すのは、プラトンのイデア論です。プラトンは、われらが美しいものを見て、「あゝ、美しい」と思うのはどうしてかと問います。
 これは美しく、これは美しくないと教えられたわけではないのに、どうしてわれらは美しさについて判断できるのか。それに対してプラトンはこう答えます、われらはまだこの世に生まれてくる前に、美しさそのもの(これをプラトンは美のイデアと呼びます)を直に目にしていたのだと。ところが肉体をまとってこの世に生まれてくると、そのことをすっかり忘れてしまい、忘れていること自体を忘れてしまったというのです。
 ところが、あるとき美しいものを目の当たりにしたとき、忘れていた美のイデアを突然思い出し、「あゝ、美しい」と思う。こうしてわれらは誰に教えられたわけでもないのに、美の判断ができるのだとプラトンは言うのです。いかがでしょう、生まれてくる前に美のイデアを見ていたなどというのは紛れもなく神話的な説明ですが、そうとしかいい表せない真実がそこにあるのではないでしょうか。
 弥陀の誓願にたすけられるというのも神話的な言い回しですが、そうとしか言えない真実があります。あるときふと「そのまま生きていていい」という不思議な声が聞こえるという経験です。この声が聞こえたとき、それだけで「あゝ、救われた」と思う。ある日、欝々したこころをもてあましながら家の近くの散歩道を歩いていましたら、向こうからやってきた見知らぬ老夫婦がにこやかに「こんにちは」と声をかけてくださいました。それがぼくに「そのまま生きていていい」と聞こえ、胸に温かいものがこみ上げてきました。
 「われ人ともに救われん」という弥陀の誓願が「南無阿弥陀仏」の声となって一切衆生のもとに届けられるというのは、そんな経験を神話的に語っているのです。老夫婦の「こんにちは」という挨拶がぼくにとって「南無阿弥陀仏」の声として胸にしみ、そしてそれが聞こえただけで「あゝ、救われた」と思えた。これが「弥陀の誓願不思議にたすけられまゐらせて」ということです。

タグ:親鸞を読む
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