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念仏まうさんとおもひたつ [『歎異抄』を聞く(その13)]

(5)念仏まうさんとおもひたつ

 「往生をばとぐるなりと信じて」のあとに「念仏まうさんとおもひたつこころのをこるとき」ときます。これも「往生をばとぐるなりと信じる」ことが取りも直さず「念仏まうさんとおもひたつ」ことであり、このふたつは別のことではありません。「弥陀の誓願不思議にたすけられまゐらせ」〈て〉、「往生をばとぐるなりと信じ」〈て〉、「念仏まうさんとおもひたつ」と続きますと、次々と因果が連鎖しているように思います。「弥陀の誓願不思議にたすけられまゐらす」ことが因となり、「往生をばとぐるなりと信じる」という果を生み、またこんどはそれが因となって、「念仏まうさんとおもひたつ」という果が生まれるというように。
 しかし「誓願にたすけられること」と「往生を信じること」と「念仏もうすこと」はひとつです。「誓願にたすけられた」と思うことがそのまま「往生を信じる」ことであり、それがまた「念仏もうす」ことです。
 先ほど、「誓願不思議にたすけられまゐらせる」とは、南無阿弥陀仏の声が聞こえることだと言いました。「そのまま生きていていい」と聞こえて、「あゝ、救われた」と思うと。その思いは内にとどまることができず、おのずから南無阿弥陀仏となって外に出ていこうとします。それが「念仏まうさんとをもひたつこころ」です。南無阿弥陀仏は仏のことばですが、それが衆生に届きますと、ただちに衆生のことばとなってこだまします、南無阿弥陀仏と。散歩道で老夫婦から「こんにちは」と声をかけられたとき、すぐさまぼくの口から「こんにちは」とこだましたように。
 「本願を信じ念仏する」と言いますと、まず本願を信じ、しかる後に念仏するものと思います。しかし信心と念仏はそのように離れているものではありません。本願を信じることがそのまま念仏することであり、念仏することがそのまま本願を信じることです。信心も念仏も本願に何かをつけ加えることではなく、本願が届いたことそのものが信心と呼ばれ、それがまた念仏と呼ばれるのです。

タグ:親鸞を読む
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