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摂取不捨の利益 [『歎異抄』を聞く(その14)]

(6)摂取不捨の利益

 「念仏まうさんとおもひたつこころのをこるとき」につづいて「すなはち摂取不捨の利益にあづけしめたまふなり」とあり、ようやくこれで一文が完結します。ここのつなぎ方は「おもひたつこころのをこり」〈て〉、ではなく、「おもひたつこころのをこる」〈とき、すなはち〉となっています。この〈とき、すなはち〉は、前後がひとつであることを表していると考えられます。「念仏まうさんとおもひたつ」ことが、そのまま「摂取不捨の利益にあづかる」ことであると。
 かくして本願が届くことが、すなわち信心することであり、また念仏することでもあり、そして、それがそのまま摂取不捨にあづかることであるとなります。
 摂取不捨ということばは『観無量寿経』に「光明はあまねく十方世界を照らし、念仏の衆生を摂取して捨てず(光明遍照十方世界、念仏衆生摂取不捨)」と出てきます。光の仏である阿弥陀仏(無量の光、アミターバ)に包み込まれ、守られるというイメージです。この経文は、うっかりすると、念仏すれば弥陀の光明に摂取されると理解されます。逆に言いますと、念仏しないと摂取されないというように排他的に読まれるのですが、そうではないことは、「念仏まうさんとおもひたつこころのをこるとき、すなはち摂取不捨の利益にあづけしめたまふなり」という文が教えてくれます。念仏すれば摂取されるのではなく、念仏することが、取りも直さず摂取されることなのです。
 先ほど言いましたように、信心も念仏も本願にわれらが何かをつけ加えることではありません。本願に遇うことがそのまま信心であり念仏なのです。そしてそれが光明に摂取されることに他なりません。もし信心・念仏がわれらが本願に何かをつけ加えることでしたら、信心し念仏すれば摂取されるという言い方ができるでしょうが、信心も念仏もわれらの手柄ではなく、したがって当然、摂取不捨もまたそうではありません。みな本願からやってくるのです。

タグ:親鸞を読む
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