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罪悪深重、煩悩熾盛の衆生 [『歎異抄』を聞く(その15)]

(7)罪悪深重、煩悩熾盛の衆生

 次に第2段、「弥陀の本願には、老少善悪のひとをえらばれず、ただ信心を要とすとしるべし。そのゆゑは、罪悪深重、煩悩熾盛の衆生をたすけんがための願にまします」を見ていきましょう。第1段は弥陀の誓願不思議にたすけられるとはどういうことかを述べていましたが、第2段は、誰が弥陀の誓願不思議にたすけられるかについてです。第1段は弥陀の誓願による救いについて述べ、第2段は弥陀の誓願に救われる衆生について述べていると言っても同じです。まず法について、次いで機について、という順序です。
 弥陀の本願は「一切衆生を救わなければ、正覚をとらない」というものですから、救いの対象(機)は文字通り一切衆生で、そこに何の条件もないはずです。それが「弥陀の本願には、老少善悪のひとをえらばれず、ただ信心を要とす」ということです。老いも若きも、善人も悪人も、何の分け隔てもありません、ただ信心さえあればいい、ということです。この「ただ信心さえあれば」といいますのは、繰り返しになりますが、われらが本願に信心をつけ加えることではありません、ただ本願を本願として受けとめるだけでいいということです。
 さて、老いも若きも、については問題ないとしまして、善人も悪人も、となりますと、不審が出てくることでしょう、「えー、悪人も平等に救われるなんて」と。そこで次の文がきます、「そのゆゑは、罪悪深重、煩悩熾盛の衆生をたすけんがための願にまします」と。弥陀の本願は悪人をこそたすけるための願なのだというのです。しかし本願というのは一切の衆生をたすける願ではなかったのでしょうか。どうして「罪悪深重、煩悩熾盛の衆生」をたすけるための願なのか。
 これは第3章で主題となることですが(いわゆる悪人正機の問題です)、先回りして一通り考えておきましょう。

タグ:親鸞を読む
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