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悪人とは [『歎異抄』を聞く(その16)]

(8)悪人とは

 「えー、悪人も平等に救われるなんて」と不満の声を上げる人は、自分を善人と思っています。善人とまでは思っていなくても、少なくとも悪人ではないと思っているはずです。そして自分以外の誰彼について、「あいつは悪人だ」と思っています。しかし親鸞が「罪悪深重、煩悩熾盛の衆生をたすけんがための願にまします」と言うとき、罪悪深重、煩悩熾盛の衆生とは自分のことを指しています、自分以外の誰彼のことではありません。親鸞にとっての悪人は、普通に悪人というのとは違うということ、これがこの文を理解する鍵となります。
 普通は悪人というものを客観的な意味で理解しています。悪人の基準というものがあって(それは何かと言われると困りますが、それでも悪人かそうでないかを見分ける目途というものは確かにあって)、それを基に、あの人はかなりの悪人、あの人はちょっぴり悪人、あの人は善人というように判断しています。しかし親鸞にとって、悪人とは自分を悪人と自覚している人のことで、それ以外に悪人はいません。ですから「自分は悪人である」という言い方しか成り立たず、「あの人は悪人である」とは言えません。悪は自覚においてしか存在しない、ということです。
 どうしてでしょう。
 「自分は悪人である」と思わない限り、人からどれほど「おまえは悪人である」と言われても、本人には何の意味も持たないからです。もちろん社会にとっては意味があります。人のものをとったものは悪人であると断罪してきびしく罰しないと社会の秩序がもちません。でも本人が「オレは悪人ではない」と思っていれば、社会がよってたかって「おまえは悪人である」と言ったところで「オレは悪人ではない」のです。『罪と罰』のラスコリニコフが頭に浮びます。彼は金貸しの老婆を殺して金を奪っても「オレは悪人ではない」と思っていたのです。

タグ:親鸞を読む
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