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機の深信 [『歎異抄』を聞く(その17)]

(9)機の深信

 親鸞にとって「自分は悪人である」という自覚こそが大事です。「罪悪深重、煩悩熾盛の衆生をたすけんがための願にまします」というのは、悪人の自覚のあるものをたすけてくれるということだからです。このことばは弥陀が「罪悪深重、煩悩熾盛」の哀れな悪人を探しだして、たすけの手を差しのべてくれると受けとられるかもしれませんが、そういうことではなく、自分を悪人と自覚してはじめてたすけがあるということです。しかし、それはいったいどういうことでしょう、
 まず次の確認からスタートしましょう。自分は悪人であるという自覚は自分で得られるものではないということ。
 先に言いました客観的な意味での悪人ということでしたら、自分はどう見ても善人とは言えないという判断をみずから下すことはあります。でもここで悪人の自覚と言うのは「自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫(こうごう、はるかな昔)よりこのかたつねに没しつねに流転して、出離の縁あることなし」(善導『観経疏』)と思い知ることです。「たすかりようのない悪人」という自覚であり、もはや他と比較してどうこうというのではなく、こんな自分は「とても地獄は一定すみかぞかし」(第2章)と思うことです。この自覚は、自覚とはいうものの、みずから得ることができるものではありません。
 自分が自分に引導を渡すことはできないということです。自分が自分のことを否定することはもちろんありますが、それはどこまでも部分否定にとどまり、「もうどうしようもない」と全否定することはありません。というより、それは原理的に不可能です。「もうどうしようもない」と否定するのも自分ですから、少なくともそうしている自分は肯定されています。「わたしは嘘つきである」と言うとき、少なくともそう言っているわたしは嘘つきではないとしなければ、このもの言いは自己矛盾に陥ります。
 「たすかりようのない悪人」という自覚をみずから得ることができないとしますと、それは「なんじはたすかりようがない悪人である」という声としてどこかからやってくるしかありません。「わたしは嘘つきである」という自覚も、「なんじは嘘つきである」という声としてやってくるように。そして「なんじはたすかりようがない悪人である」という声が聞こえたそのとき、「そんなたすかりようがない悪人をたすけんがための願である」ことに気づくのです。

タグ:親鸞を読む
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