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悪をもおそるべからず [『歎異抄』を聞く(その18)]

(10)悪をもおそるべからず

 さて最後の第3段、「しかれば本願を信ぜんには、他の善も要にあらず、念仏にまさるべき善なきゆゑに。悪をもおそるべからず、弥陀の本願をさまたぐるほどの悪なきゆゑにと云々」です。第1段で、本願にたすけられるとはどういうことかを述べ、第2段で、悪人であることを自覚した衆生こそが本願にたすけられると述べた上で、結論としてこの第3段で、本願にたすけられたからには「他の善も要にあらず」、また「悪をもおそるべからず」と述べられるのです。
 この文を、本願を信じる「ために」は、善をもとめることも、悪をおそれることもないというように理解すべきではありません。すでに述べましたように、信心は本願につけ加える何ものかではありませんから、それを得る「ために」どうするもこうするもなく、気がついたときには信心を得てしまっているのです。したがって、ここに述べられているのは信心に先立つことではなく、そののちのことを言っていると読むべきです。「その名号を聞きて、信心歓喜」(本願成就文)したあとは、もはや善をもとめることもなく、悪をおそれることもない、というように。
 第1段に「念仏まうさんとおもひたつこころのをこるとき、すなはち摂取不捨の利益にあづけしめたまふ」とありましたが、その摂取不捨の利益の具体的内容が、この「他の善も要にあらず」、「悪をもおそるべからず」であると考えることができます。弥陀の光明に包まれ、もはや捨てられることはないのですから、善だの悪だのに右顧左眄することはないということです。信心をえたのちに開かれる新しい人生、すなわち摂取不捨・現生不退において、これまで善をもとめ、悪をおそれていた生活が一変するというのです。
 善導の「二河白道の譬え」が頭に浮びます。旅人が水火の二河の中に細い白道があるのを見て、「われいまかへるともまた死せん、住すともまた死せん、ゆくともまた死せん」と恐れたそのとき、東岸から「きみただ決定してこの道をたづねてゆけ。かならず死の難なけん」という釈迦の声がし、西岸からは「なんぢ一心正念にしてただちにきたれ、われよくなんぢをまもらん」という弥陀の声がする。白道の北にある水の河は「貪欲」を、南の火の河は「瞋憎」を譬えています。われらは貪欲の波をかぶり、瞋憎の炎に焼かれて生きていますが、そうした煩悩をもはや「おそるべからず」と言うのです。

タグ:親鸞を読む
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