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名利のために [『歎異抄』を聞く(その20)]

(12)名利のために

 先ほど、教壇から生徒に向かうとき、教師としての「立場」からものを言うと言いましたが、生徒はそれを敏感に察知します、「この人は立場で話しているな」と。それをもっとあけすけに言えば、「オレたちのことを考えているのではなく、自分の名利のことしかないじゃないか」ということです。そうです、善をもとめ、悪をおそれる、というのは、要するに、名利をもとめ、それを失うのをおそれているのです。「立場」を守って最善を尽くすというのは、結局、己れの名利を守るために一生懸命になるということです。
 これはしかしあまりにシニカルだと思われるかもしれません。世の中には自分を犠牲にしても「立場」を守り、みんなに感動を与えるような人はいっぱいいるじゃないかと言いたくなります。でも、よく見ると、そのような人は立場を守ろうとしたのではなく、立場など超えて、むしろ立場に反してでも、自分のしたいことをしたのではないでしょうか。それは自分を縛ることではなく、だから他の人を縛ることもありません。この自然法爾の行いが人に感動を与えるに違いありません。
 自分の立場において、いっしょうけんめい善をもとめ、悪をおそれるというのは、要するに己れの名利をもとめ、それを失うのをおそれることだ。本願名号に遇うことができますと、これが見えてくるのです。「あゝ、これまで善だ悪だと右顧左眄してきたが、結局、己れの小さな我を守ろうと汲々としていただけではないか」と。さて、それが見えますと、もう己の我を守ることはすっかりなくなるでしょうか。もう己れの名利なんて眼中になくなるでしょうか。
 もう一度本文を読んでみましょう。「しかれば本願を信ぜんには、他の善も要にあらず、念仏にまさるべき善なきゆゑに。悪をもおそるべからず、弥陀の本願をさまたぐるほどの悪なきゆゑにと云々」。「他の善も要にあらず」と言い、「悪をもおそるべからず」と言うからには、本願に遇うことができたあかつきにも、つい己の名利を守ろうとして、善をもとめ悪をおそれてしまうからではないでしょうか。そのような傾向があるからこそ、そう言わなければならないのではないか。

タグ:親鸞を読む
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