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『歎異抄』を聞く(その21) ブログトップ

はずべしいたむべし [『歎異抄』を聞く(その21)]

(13)はずべしいたむべし

 『教行信証』「信巻」の一節が頭によみがえります。「かなしきかな愚禿鸞、愛欲の広海に沈没し、名利の大山に迷惑して、定聚のかずにいることをよろこばず、真証の証にちかづくことをたのしまず。はずべしいたむべし」。これは言うまでもなく、すでに本願名号に遇ったのちのことです。もう摂取不捨の利益にあずかっているはずなのに、すでに正定聚のかずに入っているはずなのに、これまでと変わらず、名利をもとめ、それを失うことをおそれている、何ということだ、と恥じているのです。
 本願名号に遇うことができてからも名利をもとめて右往左往するとしますと、本願名号に遇うことにどんな意味があるのか、と言われるかもしれません。本願名号に遇おうが遇うまいが、「愛欲の広海に沈没し、名利の大山に迷惑して」いるのだとしたら、信心念仏なんて何にもならないじゃないかと。とんでもありません、本願名号に遇うことで、はじめて「愛欲の広海に沈没し、名利の大山に迷惑して」いることを恥じいり、こころから痛むことができるようになるのです。
 自分の立場において、善をもとめ、悪をおそれて生きるのは、人間として当然のことであり、それを立派にやり通すことは尊敬に値することだ、と思うのが普通です。ところが本願名号に遇うことで、善をもとめ、悪をおそれるというのは、つまるところ名利をもとめ、それを失うのをおそれることではないかと知らしめられるのです。そしてそこに「はずべしいたむべし」という慙愧の念が起こります。不思議なことに、この慙愧の念が名利をもとめるこころを浄化してくれるのです。
 「お恥ずかしい人生で」という思いが、お恥ずかしい人生を浄化してくれる。これが「他の善も要にあらず」、「悪をもおそるべからず」ということです。第7章で「念仏者は無碍の一道なり」と言われるのもこのことです。

                (第2回 完)

タグ:親鸞を読む
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