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をのをの十余ケ国のさかひをこえて [『歎異抄』を聞く(その23)]

(2)をのをの十余ケ国のさかひをこえて

 第1章の文では、それが聴衆に語りかけられたことばなのか、それとも紙を前にして紡ぎ出された文章なのかは判別できませんが、第2章にきて、明らかに御物語であることが分かります。書かれた文章にはない臨場感、ライブ感があふれていて、それがこの章の魅力となっています。親鸞がすぐ前にいる何人かの弟子たちに「をのをの」と語りかけているさまが目に浮ぶようです。その「をのをの」の中に、この書を残してくれた若き唯円がいたことは疑いようがありません。この文章はその場にいて、親鸞のことばをじかに聞いた人でなくては書けるものではありません。
 この御物語がなされた背景を想像してみましょう。親鸞は42歳のころ流罪先の越後から常陸の国に移り専修念仏の教えを説き始めます。そして20年ほどその地に留まり、多くの弟子(第6章で「親鸞は弟子一人ももたずさふらふ」と言っていますから、御同朋、御同行と言うべきでしょうが、まあ普通に弟子と言っておきます)を育てるのですが、どんな事情があったのか、60歳のころ京に帰ります。そしておそらく五条西洞院の住まいで暮らすようになるのですが、その「非僧非俗」の生活を支えたのは関東の弟子たちの「こころざし」であっただろうと思われます。
 冒頭の「をのをの十余ケ国のさかひをこえて、身命をかへりみずして、たづねきた」といのは、そうした関東の弟子たちが京の親鸞をはるばる訪ねてきたということです。もちろんただ挨拶のために来たわけでも、ましてや物見遊山のついでに立ち寄ったのでもなく、「ひとへに往生極楽のみちをとひきかんがため」です。しかも、経文や書物を読んでいて疑問が生じたので、それをひとつお聞きしたい、といった通りいっぺんのことではなく、何かもっと逼迫したものがひしひしと感じられます。親鸞の前にいる面々の必死の形相が浮かんできます。

タグ:親鸞を読む
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