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善鸞事件 [『歎異抄』を聞く(その24)]

(3)善鸞事件

 その緊迫感は「しかるに、念仏よりほかに往生のみちをも存知し、また法文等をもしりたるらんと、こころにくくおぼしめしておはしましてはんべらんは、おほきなるあやまりなり」ということばから伝わってきます。「こころにくく」というのは、この場合、「よく見えない」「いぶかしい」という意味で、親鸞聖人は何か大事な教えをわれらには隠しているのではないか、という不信感が弟子たちのこころにたゆたっているのが感じられるのです。こうした緊迫感や不信感のもとはどこにあるのでしょう。
 思い浮かぶのが善鸞事件です。
 親鸞の息子・善鸞が父の名代として関東教化に赴くのですが、当地の親鸞面授の弟子たちへの対抗意識からでしょう、自分は父・親鸞から秘伝の教えを受けてきたというような話をして人を引き付けようとしたのです。これがどんな結果を招くか。容易に想像できますように、関東の念仏集団は混乱のるつぼと化すのです。そのあたりのことは親鸞の手紙で明らかですが、とりわけ印象的なのは唯円の兄にあたる人物、平太郎のもとに集まっていた念仏者たちが何十人と平太郎をすてて善鸞の弟子になったという出来事です。
 そのことを聞いた親鸞は善鸞への手紙で「どうしてそのようなことになるのか」と強い調子で詰問しています。「慈信坊(善鸞のことです)のくだりて、わがききたる法文こそまことにてはあれ、ひごろの念仏はみないたづらごとなりとさふらへばとて、おほぶ(大部、いまの水戸)の中太郎(平太郎のこと)のかたのひとびとは、九十なん人とかや、みな慈信坊のかたへとて、中太郎入道をすてたるとかや、ききさふらふ。いかなるやうにて、さやうにはさふらふぞ(あなたがそちらで、自分が聞いてきた教えこそ真実で、みんなが日頃もうしている念仏は偽りであるなどと言いふらし、その結果、大部の中太郎のもとにいた人たちが九十何人も中太郎をすててあなたのところへ走ったそうですが、いったいどういうことでしょうか)」と。
 このような混乱を背景として『歎異抄』のこの段を読みますと、ピリピリした雰囲気がよりはっきりと伝わってきます。

タグ:親鸞を読む
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