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存知せざるなり [『歎異抄』を聞く(その27)]

(6)存知せざるなり

 「親鸞にをきては、ただ念仏して弥陀にたすけられまひらすべしと、よきひとのおほせをかぶりて、信ずるほかに別の子細なきなり」にすぐ続いて、実に驚くべきことばがきます、「念仏は、まことに浄土にむまるるたねにてやはんべるらん、また地獄におつべき業にてやはんべるらん、総じてもて存知せざるなり」と。信じがたいことばが親鸞の口から出てきて、その場にいた面々、一様にびっくりしたのではないでしょうか。法然上人から「ただ念仏して弥陀にたすけられまひらすべし」とお聞きしたのですから、念仏をもうせば浄土へ往生できること疑いありません、と続くはずのところを、往生できるかどうかは知らないというのですから。
 ここに親鸞浄土教の真面目があります。
 蓮如ならこう言います、「一念に、弥陀如来今度の後生たすけたまえと、ふかくたのみ申さん人は、十人も百人も、みなともに弥陀の報土に往生すべき事、さらさらうたがいあるべからざるものなり」(「おふみ」第5帖の第2通)。いたるところに「つゆちりほどもうたがうべからず」、「さらにうたがいのこころ、ゆめゆめあるべからず」といったことばが出てきて、信心のひとは必ず往生できると繰り返しうけがっています。ところが親鸞という人は、信心をえて念仏しても往生できるか、それとも地獄行きとなるのか「総じてもて存知せざるなり」と言うのです。
 この違いはどこからくるのでしょう。
 結局のところ、往生を「これから」のことと見るか、それとも「もうすでに」のこととするかということです。往生が「これから」のことでしたら、どこまでいっても疑いは晴れません。蓮如が繰り返し巻き返し「さらさらうたがいあるべからず」と言わなければならないのは、何度言っても疑いはその度またそっと忍び寄ってくるからです。往生は「これから」のことであるとしますと、疑いからすっかり解放されることはあり得ないと言わなければなりません。

タグ:親鸞を読む
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