SSブログ
『歎異抄』を聞く(その28) ブログトップ

時間の謎 [『歎異抄』を聞く(その28)]

(7)時間の謎

 「これから」のことはどこまでも疑いがつきまとうと言いましたが、反対に天地がひっくり返っても確かなのは「もうすでに」のことです。むしろこう言うべきかもしれません、どこまでも疑いが残ることを「これから」とし、天地がひっくり返っても確かなことを「もうすでに」としていると。ここで少し時間というミステリーワールドに踏み込むことをお許しいただきたいと思います。時間ほど謎に満ち、だからこそおもしろい領域はありません。以前に考えたことをベースにして、イチミリでも新たな発見があることを期待しながら、いま一度考えてみたいと思います。
 「いま」と「もうすでに」と「これから」。
 まずもって「もうすでに」(過去)があり、そして「いま」(現在)があって、さらに「これから」(未来)がやってくる、というように思います。昨日があり、今日があって、そして明日がある、と。しかし昨日はいったいどこにあるのか、そして明日もはたしてどこにあるのでしょう。「ある」と言えるのは、「いま」目の前に見えるものだけではないのか。もちろん「見えぬものでもあるんだよ」(金子みすず)と言わなければなりませんが、でもそれは「いま」現に感じられているからです。昨日はこの写真の中にしっかり残っているじゃないかと言っても、あるのは「いま」手にしている写真だけです。明日という日はちゃんとカレンダーに記されているじゃないかと言っても、あるのは「いま」目にしているカレンダーの数字だけです。
 昨日も明日もない、あるのは今日だけだ、などと言っているのではありません。もちろん昨日もあり、明日もあるのですが、どちらも今日のなかにしかないということです。昨日は昨日として今日のなかにあり、明日は明日として今日のなかにあります。「もうすでに」は「もうすでに」として「いま」のなかにあり、「これから」も「これから」として「いま」のなかにあります。「もうすでに」も「これから」も「いま」とは独立にどこかにあるのではないということです。

タグ:親鸞を読む
nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:学問
『歎異抄』を聞く(その28) ブログトップ