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「これから」と「もうすでに」 [『歎異抄』を聞く(その29)]

(8)「これから」と「もうすでに」

 「いま」というのはつくづくおもしろいことばです。「いま食事中です」とは文字通り「ただいま」食事をしていますということですが、「早く来るように」と言われて、「いま出ました」と答えるときは「もうすでに」出ましたということですし、「いま行きます」と返事するときは「これから」行きますという意味です。
 このように「いま」ということばには「ただいま」と「もうすでに」と「これから」の三つの意味が含まれているのです。そして「ただいま」の「いま」も決して点ではなく、伸縮自在の幅をもっています。「いま食事をしています」の「いま」はたかだか一時間ほどの幅でしょうが、「いま教員をしています」の「いま」は数十年、そして「いま第4間氷期です」となりますと数万年の幅があります。
 このように、「いま」は底なしに深く、そのなかに「もうすでに」と「これから」を含んでいますが、この二つをごちゃまぜにすることはありません。過つことなく、これは「もうすでに」で、これは「これから」と見分けることができます。そのとき手掛かりとなるのが、一方は天地がひっくり返っても確かであるのに対して、他方はどこまでも疑わしいということです。「もうすでに」起こってしまったことは天地がひっくり返っても確かですが、「これから」起こることはどこまでも疑わしい。
 「念仏は、まことに浄土にむまるるたねにてやはんべるらん、また地獄におつべき業にてやはんべるらん、総じてもて存知せざるなり」に戻りましょう。蓮如なら「つゆうたがうべからず」と言うところを親鸞は「総じてもて存知せず」と言いますが、それは問題が「これから」のことだからです。「これから」の往生については、どこまでも疑いはついてまわるということをはっきり言っているのです。「これから」の往生を「疑うべからず」と言うのではなく、疑って当然だと言うのです。そしてこう続けます、「たとひ法然上人にすかされまひらせて、念仏して地獄におちたりとも、さらに後悔すべからずさふらふ」と。「これから」のことは分かりませんから、念仏して地獄におちるかもしれませんが、それでも一向に後悔しません、と。
 なぜそんなことが言えるのでしょう。

タグ:親鸞を読む
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