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『歎異抄』を聞く(その30) ブログトップ

地獄は一定すみかぞかし [『歎異抄』を聞く(その30)]

(9)地獄は一定すみかぞかし

 親鸞はその理由をこう言います、「そのゆゑは、自余の行をはげみて仏になるべかりける身が、念仏をまうして地獄にもおちてさふらはばこそ、すかされたてまつりてといふ後悔もさふらはめ、いづれの行もをよびがたき身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし」と。これは一見よわよわしい繰り言のように聞こえます。自力で救いをつかむことができるのなら、だまされたという後悔もあるだろうが、「いづれの行もをよびがたき身」だから、たとえ地獄におちてもしかたがない。そもそも自分には地獄がふさわしいのだ、と。しかし、このよわよわしさの裏には、天地がひっくり返っても覆らない信があることを見逃してはなりません。
 「地獄は一定すみかぞかし」と言えるのは、その裏に「極楽は一定すみかぞかし」の信があるからです。
 その信は「これから」のことではありません、「もうすでに」のことです。何度も言いますように、「これから」の往生については、どこまでも疑いがついてまわります。蓮如に「つゆうたがうべからず」と言われても、言われれば言われるほど疑いが募ります。でも「もうすでに」往生しているとしたらどうでしょう。これはもう天地がひっくり返っても確かです。親鸞の信はそういう信です。「信心のひとはその心すでにつねに浄土に居す」(『末燈鈔』第3通)のです。
 しかし、「もうすでに」往生しているとはどういうことか、という声が上がることでしょう。それは浄土の教えに反するのではないか、往生はいのち終わってからのことではないのか、と。そこで思い起こしたいのが「これから」も「もうすでに」も「いま」のなかということです。「いま行きます」は「これから行きます」ですが、「いま出ました」は「もうすでに出ました」であるように、身も心も浄土に居るようになるのは「これから」ですが、心は信心を得たとき「もうすでに」浄土に居るのです。
 「いま(これから)浄土へ往く」とともに「いま(もうすでに)穢土を出た」のです。

タグ:親鸞を読む
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