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第2章第3段 [『歎異抄』を聞く(その31)]

(10)第2章第3段

 弥陀の本願まことにおはしまさば、釈尊の説教、虚言なるべからず。仏説まことにおはしまさば、善導の御釈(おんしゃく)、虚言したまふべからず。善導の御釈まことならば、法然のおほせそらごとならんや。法然のおほせまことならば、親鸞がまうすむね、またもてむなしかるべからずさふらふか。詮ずるところ愚身の信心にをきては、かくのごとし。このうへは、念仏をとりて信じたてまつらんとも、またすてんとも、面々の御はからひなりと云々。

 (現代語訳) 阿弥陀仏の本願がまことでしたら、釈尊の教えも虚言ではないでしょう。釈尊の教えがまことでしたら、善導の解釈も虚言であるはずはありません。善導の解釈がまことでしたら、法然の言われることもそらごとではないでしょう。法然の言われることがまことでしたら、この親鸞の言うことも、またむなしくないのではないでしょうか。結局、愚かな身の信心というものは、こんなものです。この上は、念仏をとって信じられようと、あるいは捨てられようと、みなさんお一人おひとりのお考えです。と、こんなふうにおっしゃいました。

 第2章の最後のところです。ここで親鸞は南無阿弥陀仏の歴史に言及します。わたしが念仏しているに違いはないが、それは南無阿弥陀仏の歴史がそうなさしめているのであり、わたしはそれに何ひとつつけ加えているのではないと。そして最後の最後にこう言い放ちます、念仏をするかしないかは「面々の御はからひなり」と。
 親鸞の面目躍如です。

タグ:親鸞を読む
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