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念仏の歴史 [『歎異抄』を聞く(その32)]

(11)念仏の歴史

 第1段で「親鸞にをきては、ただ念仏して弥陀にたすけられまひらすべしと、よきひとのおほせをかぶりて、信ずるほかに別の子細なきなり」と述べ、第2段で「たとひ法然上人にすかされまひらせて、念仏して地獄におちたりとも、さらに後悔すべからずさふらふ」の述べたあと、最後の段で「よきひとのおほせ」には、はるかな歴史的背景があるのだと話を展開します。
 少し前のところで(4)、「ただ念仏して弥陀にたすけられまひらすべし」ということばはよきひと・法然上人の口から発せられたに違いないが、親鸞には弥陀自身の声として聞こえたはずであると言いました。だからこそ、それを「信ずるほかに別の子細なきなり」であり、また「たとひ法然上人にすかされまひらせて、念仏して地獄におちたりとも、さらに後悔すべからず」であると。
 さて親鸞は法然の口を通して弥陀の声を聞いたように、法然は善導の書物を通して弥陀の声を聞き、善導はまた釈迦の経典を通して弥陀の声を聞いたはずで、さらに釈迦はと言いますと、弥陀の声を直に聞いたということです。かくして弥陀の声は釈迦、善導、法然、そして親鸞へと伝えられた。これをぼくはこれまで南無阿弥陀仏の「リレー」と呼んできましたが、この言い方では一本の細い線のイメージになってしまうおそれがあります。実際には無数の人たちによって南無阿弥陀仏が縦横無尽に伝えられてきたのですから、これを南無阿弥陀仏の「歴史」といった方が真実に近いと思われます。
 前に南無阿弥陀仏は「宇宙の声」であると言いましたが(第1回、8)、今度はそれを「歴史の声」ととらえてみたい。
 南無阿弥陀仏には2千年の歴史があります。それは言うまでもなくインドのことば(サンスクリット)で、「限りないいのち(アミターユス)と限りないひかり(アミターバ)である阿弥陀仏に南無(ナモ)つまり帰命する」という意味です。因みにインド人は日々「ナマステ(こんにちは)」と挨拶しあっていますが、これは「あなた(テ)を敬います(ナマス)」と言っているのです(「ナマス」と「ナモ」は同根です)。

タグ:親鸞を読む
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