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『歎異抄』を聞く(その34) ブログトップ

第3章本文 [『歎異抄』を聞く(その34)]

           第4回 悪人正機(第3章)

(1)第3章本文

 善人なをもて往生をとぐ、いはんや悪人をや。しかるを世のひとつねにいはく、悪人なを往生す、いかにいはんや善人をやと。この条、一旦そのいはれあるににたれども、本願他力の意趣にそむけり。そのゆゑは、自力作善のひとは、ひとへに他力をたのむこころかけたるあひだ、弥陀の本願にあらず。しかれども、自力のこころをひるがへして、他力をたのみたてまつれば、真実報土の往生をとぐるなり。煩悩具足のわれらは、いづれの行にても生死をはなるることあるべからざるをあはれみたまひて、願ををこしたまふ本意、悪人成仏のためなれば、他力をたのみたてまつる悪人、もとも往生の正因なり。よて善人だにこそ往生すれ、まして悪人はと、おほせさふらひき。

 (現代語訳) 善人でさえ往生するのですから、まして悪人はなおさらです。ところが世の人々は、悪人でさえ往生するのだから、まして善人は、と言います。これは、一応もっともなようですが、実は本願他力の趣旨に背いています。どうしてかと言いますと、自力で善をなそうとする人は、一心に他力を頼もうとする心が欠けていますから、弥陀の本願にかなっていません。それでも、自力の心を翻して、他力を頼もうとすれば真実の浄土へ往生できるのです。煩悩にまみれているわれわれは、どんな行によっても生死の迷いから離れることができないのを哀れみくださって願を起こしてくださったのですから、その本来のねらいは悪人成仏にあり、他力を頼もうとする悪人こそ、往生できる因を持っているのです。ですから、善人でさえ往生する、まして悪人は、と仰せになったのです。

 『歎異抄』を世にしらしめたことば「善人なをもて往生をとぐ、いはんや悪人をや」が出てきます。これは親鸞のことばとされていますが、どうやら師・法然のことばのようです。親鸞は法然からこのことばを聞いたと述べているのです。この章と第10章だけが「おほせさふらひき」で終わり「云々」がないことがその根拠のひとつです。ここで「おほせ」られているのは法然上人と見るべきです(このことは増谷文雄氏の書物から教わりました)。

タグ:親鸞を読む
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