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善人なをもて往生をとぐ、いはんや悪人をや [『歎異抄』を聞く(その35)]

(2)善人なをもて往生をとぐ、いはんや悪人をや

 『歎異抄』のなかでもっとも有名なことば、「善人なをもて往生をとぐ、いはんや悪人をや」の登場です。これは世の常識的なことば、「悪人なを往生す、いかにいはんや善人をや」と対比されます。普通は「なをもて」は「なおさら」で、「いはんや」は「言うまでもなく」という意味ですが、この場合、「なをもて」と「いはんや」は対をなしていて、「なをもて」は「でさえ」、「いはんや」は「まして、なおさら」と訳すのが適切でしょう。ですから前者は「善人でさえ往生できるが、悪人はなおさら」となり、後者は「悪人でさえ往生できるが、善人はなおさら」となります。
 この対比を「悪人〈だから〉往生できる」と「悪人〈にもかかわらす〉往生できる」に置き換えると、そのコントラストがよりはっきりします。
 こうすることで前者がいかに常識外れであるかが際だってきます。後者でさえ、「善人〈だから〉往生できる」と比較しますと、意表をつくものがありますが、前者となりますと、普通の感覚を逆なでして、「そんなばかなことがあるものか」という反発を引き起こすでしょう。そんなことから「善人なをもて往生をとぐ、いはんや悪人をや」を、どうしても「善人が往生できるのは当然だが、悪人でも往生できる」と生ぬるく理解したくなります。こうして「悪人なを往生す、いかにいはんや善人をや」との境い目がはっきりしなくなっていき、いつの間にか「悪人〈にもかかわらず〉往生できる」に合流していくのです。
 蓮如の「おふみ」を読んでいてそれを感じます。
 たとえば蓮如はこう言います、「一心一向に、阿弥陀如来たすけ給えと、ふかく心にうたがいなく信じて、我身の罪のふかき事をば、うちすて、仏にまかせまいらせて、一念の信心さだまらん輩は、十人は十人ながら、百人は百人ながら、みな浄土に往生すべき事、更に、うたがいなし」(第5帖第4通)と。このなかに「我身の罪のふかき事をば、うちすて」とありますが、これは、悪人であっても、そんなことは気にすることなく、一心一向に弥陀をたのめば、必ず往生できるのだということでしょう。この言い回しからは「悪人〈にもかかわらず〉往生できる」の匂いが立ち込めてきます。

タグ:親鸞を読む
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