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悪人とは誰のことか [『歎異抄』を聞く(その36)]

(3)悪人とは誰のことか

 親鸞は「悪人〈にもかかわらず〉往生できる」と言っているのではありません、「悪人〈だから〉往生できる」と言っているのです。
 この一見きわめて非常識で破天荒な言い分を了解するためには、親鸞にとって悪人とは誰なのかを見なければなりません。前にこう言いました(第2回、8)、悪人とは自分を悪人と自覚している人のことで、それ以外に悪人はいない、だから「自分は悪人である」という言い方しか成り立たず、「あの人は悪人である」とは言えないと。悪は自覚においてしか存在しないということですが、ここにもう一度たちかえりましょう。
 本人が自覚しようがしまいが悪は悪だ、というのが世間の通り相場です。世の中には善と悪があり、善をなす人が善人で、悪をなす人を悪人という、と、このように考えられています。この考え方には、人は善をなそうとして善をなすことができ、悪をなそうとして悪をなす、という前提があります。そしてこれが世の道徳秩序の基礎となっています。さてしかしほんとうにそうか、と問うのが親鸞です。
 後で詳しく取り上げますが(第10回)、先回りして見ておきますと、第13章において宿業の思想が出てきます。「よきこころのをこるも、宿善のもよほすゆゑなり。悪事のおもはれせらるるも、悪業のはからふゆゑなり。故聖人のおほせには、卯毛羊毛(うのけひつじのけ)のさきにゐるちりばかりもつくるつみの、宿業にあらずといふことなしとしるべしとさふらひき」。われらは善をなそうとして善をなし、悪をなそうとして悪をなしていると思っているが、善をなし悪をなすのもみな宿業によるのだということです。
 この宿業ということばに親鸞他力思想を解く鍵があると言えます。
 宿とは過去ということで、業とは行為ですから、宿業は過去になした行為という意味です。いま現になすことは、みな過去になした行為とつながりあっているということです。しかも「宿」にはこの世に生まれる前という意味が含意されていて、曠劫よりこのかた、なしになしてきたあらゆる行いとつながっているとみなされるのです。さらには「一切の有情はみなもて世々生々の父母兄弟」(第5章)ですから、自分のなしてきた行いだけではなく、一切の有情のなしになしてきた行いともつながりあっていることになります。

タグ:親鸞を読む
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