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宿業ということ [『歎異抄』を聞く(その37)]

(4)宿業ということ

 われらは、自分の考えで、こうしよう、ああしようと思って生きているように見えますが、実はそれらの行いは、その背後に、これまでなしになしてきたこと、さらには「世々生々の父母兄弟」たちのなしてきたことすべてを背負っているのだということです。このように見てきますと、宿業は「一切のいのちたちの歴史」という相貌をまとってきます。われらはいのちたちの縦横に織りなされた歴史の網目の中に生きているということです。
 頭によみがえってきたことがあります。韓国に旅したときの思い出です。
 日本では京都にあたる町・慶州(キョンジュ)に世界遺産のお寺・仏国寺がありますが、そこを訪ねたときのことです。韓国人女性ガイドが「このお寺には石造建築物しか残っていません、お国の豊臣秀吉軍が攻め込んできたとき、火をかけたからです」と解説してくれた瞬間、われわれ日本人観光客の中にちょっとした緊張が走りました。秀吉のしたことにぼくが責任を負わなければならないいわれはないと思いながら、でも無関係とすましているわけにもいきません。ぼくもその歴史を背負って生きていかなければならないと感じるのです。これが宿業の感覚です。
 宿業と似たことばに宿命あるいは運命があります。われらの行いはみな宿業によるというのは、いわゆる宿命論(運命論)でしょうか。あらゆることは前もって定まっており、それをわれらの力で変えることはできないとするのが宿命論ですが、宿業はこれと同じでしょうか。ムスリムのウエイターがうっかり皿を割ってしまったとき、この皿はアッラーの思召しで割れる宿命にあったのだから自分の責任ではないと言い張ったという話があります。この言い分を認めてしまえば、どんな犯罪もその責任を問えないことになり、社会はたちまち崩壊してしまうでしょう。親鸞が宿業と言うとき、このようなことを言おうとしているのでしょうか。

タグ:親鸞を読む
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