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『歎異抄』を聞く(その38) ブログトップ

因果とは [『歎異抄』を聞く(その38)]

(5)因果とは

 宿命論とは、世界は必然的な因果関係によって支配されているという見方ですが、この因果は「前なる原因により後なる結果が生じる」というごく普通の意味で、ぼくらは日常的にも、自然科学や社会科学の学問においても、因果ということばをこの意味でつかっています。しかし宿業の感覚はそれとは微妙に異なります。
 宿業は縁起の思想がその背景にあり、縁起とは「あらゆることがらはつながりあっていて、それだけが独立して存在しているものはない」という見方です。縁起の法で、Aが因となってBという果が生じると言うとき、AとBとは切り離しがたく結びついていると言っているのであって、Aという原因がBという結果を一方的に決定しているということではありません。AがBを規定しているとともに、BもAを規定しているのです。
 釈迦は煩悩が因となって苦しみという果が生じると言いましたが、それは煩悩と苦しみは分かちがたく結びついているということで、前なる煩悩が後なる苦しみを一方的に引き起こしているということではありません。
 前なる煩悩と後なる苦しみが別々にあるのでしたら、後なる苦しみをなくすためには、前なる煩悩を消し去ればいいということになります(そのように解説している仏教概論は山のようにあります)。しかし煩悩と苦しみは分かちがたくひとつであり、そしてそれが生きるということに他なりませんから、煩悩を消し去れば、なるほど苦しみもなくなりますが、生きることそのものがなくなってしまいます。
 宿業の感覚とは、生きとし生けるものたちのすべての歴史を背負って生きているという感覚ですが、そこから、われらはこれまでの歴史に規定されて生きているのだから、自分には何も責任がないという、先ほどのウエイターのような言い分は出てきません。むしろ逆に、これまでの歴史を背負って生きている以上、生きとし生けるものたちがなしてきたすべてに責任があると感じるのです。

タグ:親鸞を読む
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