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胡蝶の夢 [『歎異抄』を聞く(その41)]

(8)胡蝶の夢

 『荘子』に「胡蝶の夢」の話が出てきます。蝶になった夢から覚めた荘子が、自分が蝶になった夢を見ていたのか、それとも蝶が自分のことを夢見ているのか分からなくなったというのです。おもしろい話ではありますが、夢か現かの別は崩れないと思います。荘子が蝶になった夢を見て、それから覚めたことは動きません。夢から覚めた荘子が「あゝ、蝶になった夢を見ていた」と思ったことは紛れもない事実です。
 ただ、荘子が「あゝ、夢を見ていた」と気づいたこともまた、もうひとつ別の(ひょっとしたら蝶の)夢のなかのことかもしれないのはその通りです。その場合は、もうひとつ別の大きな夢のなかで、荘子が蝶になった夢を見ていたという、夢の入れ子細工になるわけです。しかし、それがもうひとつ別の大きな夢のなかの出来事であるかどうかは、それから覚めてはじめて明らかになるのであって、その夢のなかにある限り、それが唯一のリアルな世界です。
 さて荘子が蝶になった夢から覚めたとき、「あゝ、夢のなかで蝶になっていた」と気づき、と同時に「いま夢から覚めて、現実の自分だ」と気づきます。このふたつの気づきは、一枚の紙の表と裏のようにふたつにしてひとつです。宿業に気づくことと、本願に気づくこともこれと同じです。ふと宿業に目覚めたとき「あゝ、宿業のなかでもがいていたのだ」という気づきがあるのですが、それは取りも直さず、「いま本願のなかにある」という気づきです。このふたつは一枚の紙の表と裏のようなものです。
 ただ、夢から目覚めますと、もう夢のなかにあるわけではなく、完全に現の世界になりますが、宿業から目覚める場合は、「あゝ、宿業のなかにあった」と気づいても、それで宿業の世界からおさらばできるわけではありません。依然として宿業の世界でもがきつづけなければなりません。でも、もがきつづけながら「これは宿業の世界なのだ」と気づいていますから、いわば安心してもがくことができるのです。それが「いま本願のなかにある」ということです。

タグ:親鸞を読む
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