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法蔵の誓い [『歎異抄』を聞く(その42)]

(9)法蔵の誓い

 わが身の中に、生きとし生けるものたちが曠劫よりこのかた積み重ねてきた業のすべてを感じるのが宿業の目覚めでした。
 この目覚めが起こる前は、ちょうど悪夢にうなされながら、これが夢だなどとは思いもよらず、ただひたすらうなされ続けるように、宿業のなかでもみくちゃにされながら、これが宿業だなどとは思いもよらず、ただひたすらもみくちゃにされ続けてきたのです。ところがあるときふと、「あゝ、これは生きとし生けるものたちの宿業なのだ」という気づきが起こる。これが宿業の目覚めです。
 自分は生きとし生けるものたちが縦横に織りなしてきた業の網目のなかで生きているという気づき(「よきこころのをこるも、宿善のもよほすゆゑなり。悪事のおもはれせらるるも、悪業のはからふゆゑ」という感覚)は、自分がいまここにあることは自分を含めた一切衆生のあらゆる業と切り離しがたく結びついており、一切衆生のすべての業に責任を感じるということに他なりません。
 突然ですが、法蔵も同じではないでしょうか。
 これは曽我量深氏の示唆を受けて思うことですが、法蔵もあるとき宿業に目覚めたのではないでしょうか。自分自身がいまここにあることは一切衆生の業と切り離しがたく結びついている、だから、生きとし生けるものの業すべてに責任がある、と。ここから、生きとし生けるものみなが救われなければ自分の救いもない、という法蔵の誓いが生まれてきたのだと思うのです。こうして「われ人ともに救われん」という法蔵の声が世界の隅々まで響きわたることになったのに違いありません。
 わが身に宿業を自覚するとき、はじめて法蔵菩薩に遇うのです。わが身に法蔵菩薩が生きているのを感じる。法蔵菩薩の「われ人ともに救われん」という声がわが身においてまざまざと聞こえるのです。宿業の自覚と本願の自覚はふたつにしてひとつであるというのはそういうことです。やはり「悪人〈だから〉往生できる」のであり、「悪人〈にもかかわらず〉往生できる」のではないことが、ここまできてようやく腑に落ちます。

                (第4回 完)

タグ:親鸞を読む
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