SSブログ
『歎異抄』を聞く(その43) ブログトップ

第4章本文 [『歎異抄』を聞く(その43)]

    第5回―念仏まうすのみぞ、すゑとをりたる大慈悲心にて(第4章)

(1)第4章本文

 慈悲に聖道・浄土のかはりめあり。聖道の慈悲といふは、ものをあはれみ、かなしみ、はぐくむなり。しかれども、おもふがごとくたすけとぐること、きはめてありがたし。浄土の慈悲といふは、念仏して、いそぎ仏になりて、大慈大悲心をもて、おもふがごとく衆生を利益するをいふべきなり。今生に、いかにいとをし、不便(ふびん)とおもふとも、存知のごとくたすけがたければ、この慈悲始終なし。しかれば、念仏まうすのみぞ、すゑとをりたる大慈悲心にてさふらふべきと云々。

 (現代語訳) 慈悲というものに聖道門と浄土門の区別があります。聖道門の慈悲とは、人を哀れみ、悲しみ、育むことです。しかし、思うように助け遂げるのは本当に難しい。一方、浄土門の慈悲とは、念仏して、早く仏になって、仏の大慈悲心で、思うように生きとし生けるものを救うことです。この世で、どれほど可哀そうだ、気の毒だと思っても、思うように助けることは不可能ですから、この慈悲は貫けません。だから、念仏することだけが一貫した大慈悲心だと、おっしゃったことでした。

 ここで慈悲の問題が取り上げられます。これまでも親鸞は人を驚かすことばを次々と繰り出してきました。「念仏は、まことに浄土にむまるるたねにてやはんべるらん、また地獄におつべき業にてやはんべるらん、総じてもて存知せざるなり」(2章)、「善人なをもて往生をとぐ、いはんや悪人をや」(3章)など。ここへきてまた驚くべきことばが出てきます、「念仏まうすのみぞ、すゑとをりたる大慈悲心にてさふらふ」と。われらの慈悲心っていったい何だろうと考えさせられます。

タグ:親鸞を読む
nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:学問
『歎異抄』を聞く(その43) ブログトップ