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慈悲ということ [『歎異抄』を聞く(その44)]

(2)慈悲ということ

 第4回で、悪人というのは「よきこころのをこるも、宿善のもよほすゆへなり。悪事のおもはれせらるるも、悪業のはからふゆへ」という宿業に気づき、「自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫よりこのかたつねに没しつねに流転して出離の縁あることなし」と自覚している人であることを見てきました。そんな「悪人〈だから〉往生できる」のだということを理解しようと努めてきたのです。それに対して善人とは、宿業なんてどこ吹く風、善をなそうとするから善をなすことができるのであり、つい悪に手を染めてしまうのは、己れを律する力がないからだと思っている自力作善の人です。ここではそうした聖道門の善人のありようについて述べられます。
 さて、善と言ってもいろいろありますが、善導が『観経疏』で用いている「定善と散善」という分類を取り上げますと、定善とは「心を統一して、仏や浄土を憶念する」行のことです(たとえば常行三昧という行があります。阿弥陀仏の周りを念仏しながら90日間歩きつづけるというすさまじい修行で、次第にまざまざと仏や浄土が目の前に浮ぶようになるといいます。因みに親鸞は比叡山時代に常行三昧堂の堂僧だったそうです)。一方、散善とは「散心のまま、悪をやめ、善をなす」ことを言います。散善もいろいろですが、その中で世福(世俗の善)として、「父母に孝行を尽くす」、「師長(師や年長者)によく仕える」、「慈悲の心をもつ」ことが上げられます。
 この第4章では「慈悲の心」、次の第5章では「父母への孝行」、さらに第6章では「師と弟子」というように、それぞれ善をなすということについて述べられていると見ることができます。さて「もの(人のこと)をあはれみ、かなしみ、はぐくむ」という慈悲の行いこそ、善ということを考えるとき真っ先に思い浮ぶでしょう。慈悲の慈(マイトレーヤ)とは人をいつくしみ楽を与えることで、悲(カルナー)とは人をあわれんで苦を抜くこととされます(逆の説き方をする場合もあります)。善き人ということで頭に浮ぶのは、こうした抜苦与楽の慈悲の行いをする人であるに違いありません。

タグ:親鸞を読む
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