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菩薩思想 [『歎異抄』を聞く(その45)]

(3)菩薩思想

 そもそも大乗仏教とは、自分が悟りをひらくことしか頭になかったこれまでの仏教のあり方への反省から、一切衆生の救いをめざすものとして新しく生まれてきた仏教ですから、慈悲を行とする菩薩に大きな意味が与えられることになります。「一切衆生が往生しなければ、わたしは仏にならない(若不生者、不取正覚)」という法蔵菩薩の誓願はそれを象徴するものでしょう。ぼくらは、自分の生活費を削ってでも、親から見捨てられ、ひもじい思いをしている子どもたちにご飯を提供しているお婆さん(のことが少し前の新聞に紹介されていました)の姿に感動するように、この法蔵菩薩の誓いのことばに「あゝ、ありがたい」と涙がでます。
 このように見てきますと、「ものをあはれみ、かなしみ、はぐくむ」のは大乗の精神そのものであり、仏教の大道をいくものとして称揚されなければならないと思います。ところがここで親鸞が言っているのは、それは「聖道の慈悲」であっても「浄土の慈悲」ではないということです。聖道の慈悲は「おもふがごとくたすけとぐること、きはめてありがた」いから、「念仏して、いそぎ仏になりて、大慈大悲心をもて、おもふがごとく衆生を利益する」べきだと言うのです。それが「すゑとをりたる大慈悲心」であると。
 さあしかし、「今生に、いかにいとをし、不便とおもふとも、存知のごとくたすけがたければ、この慈悲始終なし。しかれば、念仏まうすのみぞ」と説かれますと、「ちょっと待ってほしい」と言いたくならないでしょうか。親から見捨てられ、ひもじい思いのなかで非行を繰り返す子どもたちを前にして、その子たちを「おもふがごとくたすけとぐること、きはめてありがた」いから、まずは「念仏して、いそぎ仏にな」ることが「すゑとをりたる大慈悲心」であると言っていいのでしょうか。それは慈悲の行いから逃げ出すことの体のいい言い訳になっていないでしょうか。

タグ:親鸞を読む
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