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慈悲は来生? [『歎異抄』を聞く(その46)]

(4)慈悲は来生?

 この章はとりわけ文字の表面に惑わされないように、親鸞が言おうとしていることをことばの奥から聞き取ってこなければなりません。文字づらからしますと、今生ではどれほどたすけてあげたいと思っても結局のところ何もできないのだから、来生に成仏して、仏の大慈悲心で「おもふがごとく衆生を利益する」べきであると読めます。今生では「念仏まうすのみ」と、何とも消極的な姿勢に思われますが、親鸞はほんとうにそのように言っているのでしょうか。
 今生では念仏して、来生に慈悲のはたらきをする、というような間延びしたことを親鸞が言うとは思えません。
 親鸞以前の浄土教ではあらゆることを来生に期するところがありますが、そうした伝統を根本的にひっくり返したのが親鸞浄土教であることを第2回のところで見てきました。第1章の冒頭に「弥陀の誓願不思議にたすけられまゐらせて、往生をばとぐるなりと信じて」とあります。伝統的には、今生で弥陀の誓願不思議を信じ、来生に往生すると考えられてきたのですが、親鸞は「弥陀の誓願不思議にたすけられまゐらす」ことが、そのまま「往生をとぐる」ことであると見たのです。
 往生が定まるということを、これまでは、ただ「往生のための切符」がもらえるだけととらえてきたのを、親鸞はそのとき直ちに「往生の旅」がはじまるととらえるのです。本願に遇えたそのときが浄土に向かっての旅のはじまりであると。これが現生正定聚、現生不退の思想です。さてこのように今生において往生の旅がすでにはじまるとしますと、慈悲のはたらきもその旅のなかではじまっているはずではないでしょうか。旅が終わってから(成仏してから)ようやくはじまるとは考えられません。
 とすると、ここに「今生に、いかにいとをし、不便とおもふとも、存知のごとくたすけがたければ、この慈悲始終なし」とあるのはどういうことか。

タグ:親鸞を読む
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