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この慈悲始終なし [『歎異抄』を聞く(その48)]

(6)この慈悲始終なし

 一方、「ひとつ善いことをしてやろう」と思ってすることは、言うまでもなく「わたし」がそのようにはからっています。はからってということは、そこに何らかの意図があるということですが、それは、前にも言いましたように(第2回、12)、つまるところ「己れの名利」に他なりません。先の例で、「これはいけるぞ」と思って話をするのは、要するに生徒の受けを狙っているのです、生徒からいい授業をする先生だと思われたいということです。「善いことをしてやろう」と思って何かをするのは、周りの称賛を期待しているのです、立派な人だと言ってほしいのです。
 「今生に、いかにいとをし、不便とおもふとも、存知のごとくたすけがた」いのは何故かと言いますと、ぼくらにそれだけの力がないということよりも、相手を自分の力で「たすけてあげよう」とすること自体に難点が隠れていると言わなければなりません。当人の意識としては「相手のため」と思っていても、その実「己れのため」であることが透けて見えてくるのです。透けて見えても、たすけてもらえる側としては有難くその志を受けるに違いありませんが、それは先方の善意を利用しているということになります。たすけの手を差し伸べる方も、受け取る方も「己れのため」ということです。
 としますと、やはり今生で念仏し、来生で慈悲のはたらきをするということになるのでしょうか。また元に戻ってきた感じです。
 ここで往相と還相の話に入っていきましょう。浄土の教えの最大のネックがここにあると言っていいのではないでしょうか。伝統的には、自分が浄土へ往く往相は今生、また娑婆に還ってきて衆生をたすける還相は来生と分けられてきたのですが、来生に浄土から娑婆に戻ってくるという発想がどうにもしっくりこないという問題です。そもそも往と還ということばからして、こちら(娑婆)からあちら(浄土)へ往き、しかる後に、あちらからこちらに還るとならざるを得ないのですが、そうしますと、死んだ人が別のすがたをとってまた生まれ変わってくることにならざるをえません。これがどうにもうまく呑み込めないのです。

タグ:親鸞を読む
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