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二元的対立の構図 [『歎異抄』を聞く(その49)]

(7)二元的対立の構図

 浄土の教えには、あらゆるところに二元的対立の構図が現れます。穢土vs浄土、衆生vs仏、今生vs来生などなど。そして対の左側の穢土・衆生・今生が一つの円で囲まれ、右側の浄土・仏・来生がもう一つの円で囲まれて、両者が向かい合います。往相と還相もその構図のなかに位置付けられるのですが、穢土・衆生・今生の円から浄土・仏・来生の円へ往く往相はいいとしても、後者から前者に還る還相のところで構図の破れが生じます。
 この構図では、穢土から浄土へ往くのは死んでから(つまり来生)ということですが、それがまた穢土に還ってくるとなりますと、別の姿で生まれ変わるとしか考えようがありません。しかしそれは輪廻ではありませんから(輪廻は穢土でのことです)、これをどう考えたらいいのか分からなくなってしまうのです。
 そもそもこの二元的対立の構図そのものに問題があると言わざるをえません。
 こちらに穢土があって、あちらに浄土があり、こちらに衆生がいて、あちらに仏がいるという構図では救いの成り立ちようがありません。だからこそ、穢土から浄土へ往くのも、衆生が仏となるのも、今生ではなく来生とされるわけですが、しかし来生の救いでは救いになりません。救いは「いま」でなければ意味をなさないのです。
 いや、救いの約束が「いま」与えられるのだと言われるかもしれません、現生正定聚とはそういうことだと。しかし救いの約束というのが、浄土行きの乗船切符が手渡されるということだとしますと、依然として間延びした救いだと言わざるをえません。そして、切符をもらったのはいいが、うっかりなくしてしまったらどうしよう、いや、この切符はいつか無効になるかもしれない、などと不安は絶えません。
 親鸞はこの二元的対立の構図を根本的に書き換えた人です、「信心のひとはその心すでにつねに浄土に居す」と。信心のひとは、その身は穢土にあっても、その心はもう浄土にいるというのです。信心のひとは、その姿は煩悩具足の凡夫でも、その心はすでに「仏とひとしい」というのです。信心をえるというのは、浄土行きの乗船切符が手渡されることではありません、ただちに浄土行きの船に乗るということです、もうすでに浄土への旅に出るということです。
 信心のときが往生のはじまりです。

タグ:親鸞を読む
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