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往相がそのまま還相 [『歎異抄』を聞く(その50)]

(8)往相がそのまま還相

 としますと、往相と還相についても、そのイメージがまったく変わってきます。まず往相があって、しかる後に還相という二元的構図ではなく、往相のときが、そのまま還相のはじまりという新しい図柄になります。さてしかし、往相は自分が救われていく姿で、還相とは人を救う姿ですから、往相がそのまま還相と言われても、それがどういうことか了解するのは骨が折れます。そこで曽我量深氏に教えを請いたいと思います。これまでもしばしばお世話になってきましたが、ここでもまた御厄介になりたいと思いますのは、ぼくがこれまで読んだ本で、往相と還相についてもっとも納得できることを言われていたのは曽我量深氏だからです。
 「前から見れば往相である。後から見れば還相である」。
 同一のものを前から見るのと、後ろから見るのとで見え方が違ってくるということです。目は前向きについていますから、自分では己れの前姿しか見ることができませんが、誰か別の人はその後姿を見ています。そして自分で見える前姿は往相ですが、その後姿が還相になっているというのです。子は親の背中を見て育つと言います。親は子に面と向かってくどくど言わなくても、背中がいちばん雄弁にもの語るということです。この前姿と後姿、あるいは一枚の紙の表と裏というメタファは、先に上げました穢土と浄土、衆生と仏、今生と来生の二項対立にも適用することができます。
 この世界を表から見ると紛れもない穢土だが、それを裏から見ると浄土の相をしている。生きとし生けるものはみな前から見ると衆生だが、それを後から見ると仏にひとしい。そして今生は表ではもちろん今生だが、その裏ではすでに来生がはじまっている。という具合に、これまではこちらあるものとあちらにあるものというように、別々のものとしていたのが、実は同じものであって、ただそれを前(表)から見るか、後(裏)から見るかで、その見え姿が違ってくるだけだと了解できるのです。
 往相と還相も同じで、自分ではあくまでも往相でしかないのに、その後姿は図らずも還相となっているということです。

タグ:親鸞を読む
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