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賢善精進の相 [『歎異抄』を聞く(その51)]

(9)賢善精進の相

 自分で利他のはたらきをしようとするのが聖道門でしょう。利他なくして自利はなしというのが大乗の菩薩道です。しかし「今生に、いかにいとをし、不便とおもふとも、存知のごとくたすけがたければ、この慈悲始終なし」です。これは自分には残念ながら「存知のごとくたすける」だけの力がないということよりも、自分で利他のはたらきをしようとすること自体に「虚仮」が忍び込むということです。
 善導は『観経疏』において「至誠心」を解説する中で「不得外現賢善精進之相内懐虚仮(ふとくげげんけんぜんしょうじんしそうないえこけ)」と言っていますが、普通には「外に賢善精進の相を現じて内に虚仮を懐くことを得ざれ」と読むべきこの文を、親鸞は「外に賢善精進の相を現ぜざれ、内に虚仮を懐けばなり」と読みました。この読み方ほど親鸞の感性の鋭さをよく表しているものはないのではないでしょうか。
 普通には、内に虚仮の心をもちながら、外に善人ぶってはいけません、内も外もほんとうの利他の心にならなければなりません、と説くものでしょう。しかし親鸞はそうは言いません。あたかも利他のはたらきをしているような顔をするではない、心のなかは虚仮にまみれているのだから、と言うのです。これは誰か他の人に言っているのではありません、自分に言っているのです、「おまえはいかにもいい人ぶって、ひとのためにはたらいているような顔をしているが、その実、みんなに褒めてもらいたいだけじゃないか」と。
 われらは純粋な心で慈悲のはたらきをすることなどできるわけがなく、ただ仏の慈悲にすがって生きているだけの罪悪生死の凡夫にすぎません。われらには往相しかないのです。でもそれで「以上、おわり」ではありません。自分では仏の慈悲にすがって念仏しているだけなのに、それが図らずも他の誰かには慈悲のはたらきとなっているということ、これが還相です。往相が後から見ると還相になっているのです。
 「しかれば、念仏まうすのみぞ、すゑとをりたる大慈悲心にてさふらふべき」とはそういう意味です。

タグ:親鸞を読む
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