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もういちど宿業について [『歎異抄』を聞く(その52)]

(10)もういちど宿業について

 しかし「念仏まうすのみぞ」と言われますと、どうしても人生に対して後ろ向きの姿勢に思えてしまいます。前に、自分の生活費を削ってでも、親から見捨てられ、ひもじい思いをしている子どもたちにご飯を提供しているお婆さんのことを取り上げましたが(3)、「念仏まうすのみぞ」はそうした姿とは真逆に見えてしかたがありません。「本願を信ぜんには、他の善も要にあらず、念仏にまさるべき善なきゆへに。悪をもおそるべからず、弥陀の本願をさまたぐるほどの悪なきがゆへに」(第1章)とありましたが、ぼくらはどうしても他の善を必要とし、悪をおそれるこころが消えないということでしょう。
 そこでもう一度「よきこころのをこるも、宿善のもよほすゆへなり。悪事のおもはれせらるるも、悪業のはからふゆへなり」(第13章)に戻りたいと思います。
 ぼくらには「自分の人生は自分の意思で切り拓くものだ」という強い思いがありますから、「宿善のもよおし」などと言われますと、人間にとってもっとも尊いものがないがしろにされたように感じます。どれほど自分にとって快いことであっても、それが自分の意思とは関係ないところでお膳立てされ、有無を言わさず与えられるとなりますと、その快さが一気に吹き飛んでしまうのです。やはりそこに自分の意思が反映されなければならない。他のすべては余所で決められても、最後に「それでよし」という決定は「わたし」が下す必要があるのです。
 しかしその一方で、あるときふと「宿善のもよおし」を感じることがあります。何か知らない力に背中を押されるようにして、思いもかけないところに来てしまった、という感じです。そんなときは「わたし」がどこかに引っ込んでいます。「わたし」が「そうしよう」と決めたわけでもないのに、気がついたら、そうしてしまっていた。気を失っていたわけではありません。自分でそうしているのは間違いないのですが、でも「わたし」がはからってそうしたのとは違うのです。そんなときは、「わたし」がないがしろにされたとはまったく感じません。むしろ何か爽快感があります。

タグ:親鸞を読む
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