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『歎異抄』を聞く(その54) ブログトップ

第5章本文 [『歎異抄』を聞く(その54)]

         第6回―世々生々の父母兄弟(第5章)

(1)第5章本文

 親鸞は、父母(ぶも)の孝養(きょうよう)のためとて、一返(いっぺん)にても念仏もうしたること、いまださふさらはず。そのゆゑは、一切の有情はみなもて世々生々(せせしょうじょう)の父母兄弟なり。いづれもいづれも、この順次生(じゅんじしょう)に仏になりてたすけさふらふべきなり。わがちからにてはげむ善にてもさふらはばこそ、念仏を回向して父母をもたすけさふらはめ。ただ自力をすてて、いそぎ浄土のさとりをひらきなば、六道・四生のあひだ、いづれの業苦にしづめりとも、神通(じんずう)方便をもて、まづ有縁(うえん)を度すべきなりと、云々。

 (現代語訳) わたし親鸞は、亡き父母の供養のために念仏したことは一遍もありません。それは、一切の生きとし生けるものは、生まれ変わり生まれ変わりしていく中でみんな自分の父母兄弟ですから、どの人も次の世で仏となって助けましょう。念仏が自分の力で励む善ならば、一生懸命念仏して父母を助けるでしょう。(しかし念仏は自分の力で励む善ではありません)。 ただ自力の思いを捨てて、いそいで浄土の悟りをひらくことができましたら、六道(地獄・餓鬼・畜生・阿修羅・人間・天)、四生(胎生・卵生・湿生・化生)の迷いの中でどんなにひどい苦しみにもがいていましても、仏の神通力で、まず近しい人から助けましょう。と、こんなふうにおっしゃったことでした。

 われらがなすべき善として、まず慈悲の行いが取り上げられ、「今生に、いかにいとをし、不便とおもふとも、存知のごとくたすけがた」いことが指摘されました。そして「念仏まうすのみぞ、すゑとをりたる大慈悲心にて」と述べられたのでした(第4章)。ここでは、なすべき善の二つ目として亡き父母への追善供養が話題とされ、その冒頭で「親鸞は、父母の孝養のためとて、一返にても念仏もうしたること、いまださふさらはず」とピシャリと言われます。

タグ:親鸞を読む
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