SSブログ
『歎異抄』を聞く(その57) ブログトップ

殺すなかれ [『歎異抄』を聞く(その57)]

(4)殺すなかれ

 もう20年の時間が経ってしまいましたが、神戸で連続児童殺傷事件(少年Aの事件)が起こったとき、その事件を考えるシンポジュームの会場で一人の高校生が「どうして人を殺してはいけないのでしょうか」と発言して世間を驚かせたことがあります。この問いにその場にいた錚々たる面々の誰一人答えることができなかったそうです。そんなこと当たり前すぎて、これまで考えたことがなかったからです。だからみんなキョトンとした、「この青年は何を言っているのか」と。
 あまりにも当たり前のことには人の意識は向かいません。例えば、他人に邪魔されたら腹が立つのは何故かについて人は頭を使おうとするでしょうか。そういうものだとしか思わず、ただ腹を立てているだけです。「人を殺してはいけないのはどうしてか」ということについても、人の意識はそこに向かおうとはしません。どうしてかなどと考えたこともなく、ただ「殺すなかれ」と思っているのです。
 では「殺すなかれ」の背後に何があるのか。
 先に言いましたように、生きとし生けるものはみな「ひとつのいのち」を生きているという感覚があります。それを意識することはなくても、どこかで感じているから、「人を殺してはいけない」と思うのです。いや、人だけではありません、どんないのちでもそれを殺すことには身体が抵抗します。戦場で多くの人を殺しますと、もう人を殺すことを何とも思わなくなるそうですが、それは、家畜の屠殺を生業とする人にそのことへの抵抗感がないのと同じで、感覚が麻痺してくるのです。決して「ひとつのいのち」の感覚がないわけではないでしょう。

タグ:親鸞を読む
nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:学問
『歎異抄』を聞く(その57) ブログトップ