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順次生 [『歎異抄』を聞く(その59)]

(6)順次生

 さて親鸞は宿業のなかを「つねに没しつねに流転して出離の縁」なき「世々生々の父母兄弟」を「いづれもいづれも、この順次生に仏になりてたすけさふらふべきなり」と言います。第4章でも「浄土の慈悲といふは、念仏して、いそぎ仏になりて、大慈大悲心をもて、おもふがごとく衆生を利益するをいふべきなり」とあり、今生では思うようにたすけられないから来生で存分にたすけよう、と言われていましたが、ここでもまた順次生が出てきました。こうして、今生では本願を信じ念仏をもうすだけで、慈悲の行いも父母兄弟の供養もみな順次生で仏になってから、というようにあらゆることが未来に先送りされるという印象を受けます。
 先回この問題についていろいろ考えを巡らしましたが、ここで改めて、別の角度から今生と来生について考えてみたいと思います。
 慈悲にせよ供養にせよ、「おもふがごとく衆生を利益する」ことができるのは仏のみであり、われら凡夫のよくなしうることではありません。われらはあくまで仏に利益される側にあります。そして今生において仏になることはできない、というのが浄土教の基本的スタンスです。『歎異抄』において第15章でその問題が扱われています。「煩悩具足の身をもて、すでにさとりをひらくといふこと、この條、もてのほかのことにさふらふ」。即身成仏は真言や法華の教えであり、「浄土真宗には、今生に本願を信じて、かの土にしてさとりをばひらくと、ならひさふらふ」と。
 第15章では「煩悩具足の身をもて」とあります。煩悩まみれの身でさとりをひらくなどというのは言語道断ということですが、たとえば道元のような人にそのように言うとすれば、いや、わたしにはもう煩悩などということは問題になりません、と切り返されるのではないでしょうか。このように煩悩となると個人の問題にされてしまいかねませんから(煩悩を克服できる人間もいると)、ここはやはり宿業を持ち出すべきでしょう。「世々生々の父母兄弟」は「現にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫よりこのかたつねに没しつねに流転して出離の縁あることなし」というなかにあって、「すでにさとりをひらくということ、この條、もてのほかのことにさふらふ」と。
 宿業のなかにあるという自覚においては、さとりをひらくのは現在ではありえません、未来にならざるをえないのです。

タグ:親鸞を読む
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