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即身成仏ではないが即得往生 [『歎異抄』を聞く(その60)]

(7)即身成仏ではないが即得往生

 宿業に気づいたからには、さとりは現在ではなく未来に期するしかありませんが、さてしかしこの未来はただの未来ではありません。現在の延長線上にある未来は「いまだ来たらざる」未来ですが、さとりを未来に期するというときの未来は「すでにはじまっている」未来です。未来は現在の裏側ですでにはじまっているということ、これを忘れないようにしたいものです。これまでも何度か引きましたが、「信心のさだまるとき、往生またさだまる」(『末燈鈔』第1通)のでした。そしてさらに「信心のひと、その心すでにつねに浄土に居す」(『末燈鈔』第3通)のです。親鸞は本願成就文の「即得往生」をそのように理解したのでした。
 即身成仏ではないが即得往生という微妙なあわいに親鸞浄土教は立っているのです。仏になるのはあくまで未来(順次生)ですが、その道程はすでに(今生で)はじまっているということ、われらは仏になる往生の旅のなかにすでにいるということです。これは、宿業のなかで「つねに没しつねに流転して出離の縁あることなし」と気づくことが、取りも直さず、本願のなかで「摂取不捨の利益にあづけしめたまふ」ことであるということです。宿業の気づきと本願の気づきは別ものではないということ。宿業に気づくといいますと、何か真っ暗闇の世界に突き落とされたように感じるかもしれませんが、あにはからんや、そこは弥陀の光明に明るく照らし出された世界なのです。
 こうしてまた還相の問題に舞い戻ってきます。第4章のところで、まず往相、しかる後に還相というように切り離されているのではなく、往相がそのまま裏返せば還相であるということを見てきました。「おもふがごとく衆生を利益する」ことは未来に期さざるをえませんが、でもその未来は現在の裏側ですでにはじまっているのですから、慈悲の行いも父母兄弟の供養も仏になる往生の旅のなかではじまっているのです。

タグ:親鸞を読む
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