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わがちからにてはげむ善 [『歎異抄』を聞く(その61)]

(8)わがちからにてはげむ善

 「わがちからにてはげむ善にてもさふらはばこそ、念仏を回向して父母をもたすけさふらはめ」とあります。これは「こそ…め」の掛詞で(『仰げば尊し』の一節、「いまこそ、わかれめ」の「こそ…め」です)、もし念仏がわが力で励む善でしたら、念仏することにより亡き父母をたすけることもできましょうが、念仏は自力でなす行ではありませんから、念仏して父母をたすけることはできません、という意味になります。
 慈悲のはたらきをするとき、それを「わがちからにてはげむ善(自力作善)」としてなそうとすれば、そこにおのずから「虚仮」が忍び込むものであることを先回みてきました。「自分が」誰かをたすけてあげようとするとき、そこに己れの名利や見栄が潜んでいないと言いきれる人はいるでしょうか。
 親を供養するというのも同様です。「わがちからにてはげむ善」として親を供養しようとするとき、そこには「虚仮」が忍び寄っていないでしょうか。名利や見栄が隠れていないか、あるいは親を供養することで自分を守ってもらおうとしているのではないか。そんな気持ちで供養の念仏をするとすれば、その念仏は「虚仮の念仏」と言わなければなりません。
 またもや「不得外現賢善精進之相内懐虚仮(ふとくげげんけんぜんしょうじんしそうないえこけ)」という善導のことばが頭に浮びます。これを「外に賢善精進の相を現じて内に虚仮を懐くことをえざれ」と普通に読むのと、「外に賢善精進の相を現ずることをえざれ、内に虚仮を懐けばなり」と親鸞のように読むのと、どちらが厳しい読みでしょう。
 一見したところでは、前者の方が厳しいように見えるかもしれません。内なる虚仮をあらためなさいというのですから、いやはや難しい要求だと思えます。しかし、よく考えますと、このように言うということは、われらにその気があれば内なる虚仮をあらためることができると思っているということです。内に虚仮を懐くなかれと命じるのは、それが可能だからこそです。一方、後者は内なる虚仮を取り除くことはできるわけがないとピシッと言い切ります。汝のこころの内をよく見てみよ、そこには虚仮が渦巻いているではないか、というわけです。だから外に賢善精進の相を見せるではない、と言うのです。こちらの方が情け容赦がありません。

タグ:親鸞を読む
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