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自力をすてて [『歎異抄』を聞く(その62)]

(9)自力をすてて

 人に慈悲のはたらきをしたり、亡き親を供養しているような顔をするな、というのです。いくら菩薩のような顔をしても、内には鬼が棲んでいるのだから、と。
 さてしかし、これですべて終わりとすれば、あまりに暗く、あまりに救いのない世界ではないでしょうか。そこで親鸞はこう続けます、「ただ自力をすてて、いそぎ浄土のさとりをひらきなば」と。「自力をすてて」とは、「わがちからにてはげむ善」として親の供養をしようという気持ちを捨てるということです。善をもとめ悪をおそれるこころから離れるということです。
 ただ、「捨てる」と言い「離れる」と言っても、自分でそうしようと思ってできることではありません。
 廻心(えしん)ということばがあります。『歎異抄』では第16章に出てきます。「はらをもたて、あしざまなることをおかし、同朋同侶にもあひて、口論をもしてはかならず廻心すべしといふこと、この條、断悪修善のここちか」と。「断悪修善のここち」というのが「善をもとめ悪をおそれるこころ」です。
 「はらをもたて、あしざまなることをおかす」たびに、廻心して懺悔しなければならないというのは悪をおそれているからだと言うのです。そして唯円はこう言います、「廻心といふこと、ただひとたびあるべし。その廻心は、日ごろ本願他力真宗をしらざるひと、弥陀の智慧をたまはりて、日ごろのこころにては、往生かなふべからずとおもひて、もとのこころをひきかへて、本願をたのみまいらする」ことだと。
 「もとのこころをひきかへて」というのも、自分でこころを転回させるというのではないでしょう。気がついたら弥陀の智慧がはたらいてこころが転回していた、ということに違いありません。廻心は「こころを(みずから)廻らす」であるとともに「こころが(おのずから)廻る」ことでもありますが、信心は後者です。これまでの濁っていたこころが思いがけず「すーっと澄む(プラサーダ)」、これが信心です。
 悪をおそれるこころを「捨てる」といい「離れる」というのも、自分でそうしようとするのではなく、気がついたらそうなっていたということです。

タグ:親鸞を読む
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