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いそぎ浄土のさとりを [『歎異抄』を聞く(その63)]

(10)いそぎ浄土のさとりを

 「ただ自力をすてて、いそぎ浄土のさとりをひらきなば」の「自力をすてて」とは、あるとき自力のこころが「すーっと澄み」、他力のこころに廻心したということで、それが本願に遇うということです。で、それにつづく「いそぎ浄土のさとりをひらきなば」ですが、さとりをひらくことは、前に見ましたように、未来に期するしかありません。本願に遇えたそのとき、さとりをひらくと言いますと即身成仏になってしまいます。ですから、宿業のなかに没するわれらとしては、さとりをひらき仏となるのは未来に期すしかありませんが、でもその未来は現在の延長線上で待っている未来ではなく、現在の裏側ですでにはじまっている未来です。
 「いそぎ浄土のさとりをひらく」というのは、まだ来ぬときを待つというのではなく、もういまはじまっているということです。したがって、衆生を利益する還相もまた、もうすでにはじまっています。ただそれは「わがちからにてはげむ善」ではありません、もう自力のこころから他力のこころに廻心しているのですから。それはしかし具体的にどういうことか、もういちど曽我量深氏の「前から見れば往相でも、後から見ると還相」ということばを手がかりに考えたいと思います。
 前から見るということは「意識している」ということですから、後から見ることは「無意識のうちに」と言い換えることができます。
 意識の上ではあくまでも本願に救われ浄土へ往く相にあるのですが、それが無意識裡に衆生を利益する相になっているということです。自分ではそんなつもりはまったくないのに、誰かに慈悲のはたらきをすることになり、親の供養をすることになっている。散歩道でにこやかに「こんにちは」と声をかけて下さった老夫婦に、誰かをたすけようなどという思いはまったくなかったに違いありません。ただその日を穏やかに生きておられることの喜びを「こんにちは」の声にあらわしただけでしょう。それがしかし、たまたまそこを歩いていたぼくにとって何ものにも代えがたい慈悲となったのであり、また、亡き「世々生々の父母兄弟」にとってこの上ない供養となったかもしれません。

              (第6回 完)

タグ:親鸞を読む
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