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『歎異抄』を聞く(その64) ブログトップ

第6章本文 [『歎異抄』を聞く(その64)]

          第7回―わが弟子、ひとの弟子(第6章)

(1)第6章本文

 専修念仏のともがらの、わが弟子、ひとの弟子といふ相論のさふらふらんこと、もてのほかの子細なり。親鸞は弟子一人ももたずさふらふ。そのゆゑは、わがはからひにて、ひとに念仏をまうさせさふらはばこそ、弟子にてもさふらはめ、ひとへに弥陀の御もよほしにあづかて念仏まうしさふらふひとを、わが弟子とまうすこと、きはめたる荒涼のことなり。つくべき縁あればともなひ、はなるべき縁あれば、はなるることのあるをも、師をそむきて、ひとにつれて念仏すれば、往生すべからざるものなりなんどといふこと、不可説なり。如来よりたまはりたる信心を、わがものがほにとりかへさんとまうすにや、かへすがへすもあるべからざることなり。自然のことはりにあひかなはば、仏恩をもしり、また師の恩をもしるべきなりと云々。

 (現代語訳) 専修念仏の仲間のなかに、わたしの弟子、ひとの弟子などという争いがあるのは、もってのほかのことです。わたし親鸞は弟子を一人も持っておりません。それは、わたしの力でひとに念仏をさせているのならば、わたしの弟子でもありましょうが、もっぱら弥陀のもよおしにあずかって念仏をしているひとを、わたしの弟子と言うのはとんでもないことだからです。つく縁があればつき、離れる縁があれば離れるのを、師に背いて他の人について念仏すれば往生できないなどと言うのは言語道断です。如来から賜った信心をわがものに取り返そうというのでしょうか、かえすがえすあってはならないことです。おのずからなるもよおしに会えば、仏の恩を知り、また師の恩も知るものです。とこんなふうにおっしゃいました。

 第4章は慈悲、第5章は供養、そしてこの第6章では「人を教えて信ぜしめる」こと、すなわち教化(きょうけ)の問題が扱われます。結論ははっきりしています、いずれも、それがほんものならば、「わがはからひ」ではないということ、「わがちからにてはげむ善」ではないということ、これです。

タグ:親鸞を読む
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