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弟子一人ももたずさふらふ [『歎異抄』を聞く(その65)]

(2)弟子一人ももたずさふらふ

 第4章では「いそぎ仏になりて、大慈悲心を持て、思ふがごとく衆生を利益する」と言われ、第5章では「親鸞は、父母の孝養のためとて、一返にても念仏まうしたること、いまださふらはず」と言われ、そしてここ第6章では「親鸞は弟子一人ももたずさふらふ」と言われます。どの結論もひとを驚かせるものがあります。
 そのことを裏側から言えば、われらはどれほど「わがはからひにて」、「わがちからにて」善をなそうとしているか、ということです。もう自力作善が骨の髄まで沁みこんでいるものですから、親の供養のために念仏したことはないとか、弟子を一人ももたないと言われますと、まずは「えーっ」と驚かされ、そして自分の思い込みにハッと気づかされるのです。この切り返しの鮮やかさに『歎異抄』の類いまれな魅力があります。
 さて、この章の当面の問題は「わが弟子、ひとの弟子」という相論です。
 蓮如『五帖御文』の冒頭(第1帖、第1通)にこの問題が扱われていまして、こんな質問があったという形式で書き出されています、「わが宗では、門徒を自分の弟子と考えるべきでしょうか、それとも弥陀如来や親鸞聖人の弟子というべきでしょうか。そこがよく分かりません。また、いくつかの道場に小人数の門徒がいますが、いまのところ手次の寺の坊主には内緒にしておこうと思っています。ところが、これもよくないと言う人がいます。これまた疑問に思っていることですので、お伺いしたいと思います」と。
 この質問に答える形で、蓮如はこの『歎異抄』第6章を参照しながら、浄土真宗における師匠と弟子の関係について説いているのです。この「御文」は文明3年(1471年)、蓮如が北陸の吉崎に新たな教化拠点を築いた頃に書かれていて、教線が急速に拡大している時に当たり、「わが弟子、ひとの弟子」という問題はきわめて重要な実践的課題であったことが窺えます。

タグ:親鸞を読む
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