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弥陀の御もよほし [『歎異抄』を聞く(その67)]

(4)弥陀の御もよほし

 「わがはからひ」と「弥陀の御もよほし」。自力と他力がこのことばで言い表されているのですが、これがストンと肚におちるのは「かたきがなかにかたし、これにすぎてかたきことなし」と言わなければなりません。
 「もよほし」を辞書で調べてみますと、「うながすこと」、「きざし」、「くわだて」とあります。現代語では「パーティをもよおす」と言ったりしますが、これはもちろん自分がパーティを「くわだてる」ということです。その一方で、(尾籠な話で恐縮ですが)「便意をもよおす」などとも言います。この場合は自分が便意を「うながす」のではなく、便意の方が自分を「うながして」トイレに行くよう仕向けるのです。このように「もよおす」には「自分がくわだてる」という意味と、「向こうからうながされる」という意味があります。ここで「もよほし」と言っているのは、言うまでもなく「向こうからうながされる」という他力の意味です。
 この意味の「もよほし」で思い出すのは、もう20年以上も前になってしまいましたが、阪神淡路大震災のときのことです。あのとき多くの若者がボランティアとして神戸の街にやってきたということで、世間の注目を浴びました。今では大災害があると、どこからともなく多くのボランティアがやってきて、被災者をたすけるのはごく普通の光景になりましたが、阪神淡路大震災のときはその始まりということで、ボランティア元年とよばれるようになりました。担任していた生徒から、「ボランティアに行きたいので、学校を休みたいのですが」と相談されたことを覚えています。
 マスコミも注目して、ボランティアにやってきた若者たちにインタビユーしていたのですが、水の入ったペットボトルを詰め込んだ大きなリュックを背負って、電車も動きませんから電車道を歩いてやってきた一人の青年が、「どうしてそんな苦労までして?」とマイクを向けられ、「いやもう、居ても立ってもいられず、気がついたらここに来ていました」と答えていたのが鮮烈な印象として残っています。
 何か見えない力に背中を押されるように来てしまった。彼もまた何かの「もよほしにあづかって」いたのです。

タグ:親鸞を読む
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