SSブログ
『歎異抄』を聞く(その68) ブログトップ

よきひとのおほせ [『歎異抄』を聞く(その68)]

(5)よきひとのおほせ

 「念仏まうさんとおもひたつこころのをこる」(第1章)のは、「わがはからひ」などではなく「ひとへに弥陀の御もよほし」によるということ。
 「後序」に印象的な話が出てきます。まだ承元の法難がやってくる前の吉水時代のことですが、あるとき親鸞が「善信(親鸞です)が信心も聖人(法然)の御信心もひとつなり」と言ったところ、法然上人の上足の弟子たちが「どうしてひとつなどということがあろうか」と騒ぎ立て、決着がつかないので法然上人にうかがってみることになったというのです。そして法然いわく「源空(法然です)が信心も如来よりたまはりたる信心なり、善信房の信心も如来よりたまはらせたまひたる信心なり、さればただひとつなり」。何とも見事な裁断と言わねばなりません。
 信心・念仏は「弥陀の御もよほし」によるということと「如来よりたまはりたる」ものであるということは同じです。
 さて、弥陀のもよおしによるのであり、如来よりたまわるのだとしても、そこにはかならず「よきひと」の存在がなければなりません。「親鸞にをきては、ただ念仏して弥陀にたすけられまひらすべしと、よきひとのおほせをかぶりて」(第2章)とありますように、「弥陀の御もよほし」にあづかるときには、つねに「よきひとのおほせ」が介在しているのです。そもそも「弥陀の御もよほし」がなければ信心も念仏もありませんが、しかし「よきひとのおほせ」がなければ「弥陀の御もよほし」にあづかることができません。
 これは弥陀と釈迦(そして諸仏)の関係と同じです。弥陀の本願がなかりせば、釈迦の説法(諸仏の称名)がないのはもちろんですが、しかし釈迦の説法(諸仏の称名)がなかりせば、弥陀の本願はありません。弥陀の本願は釈迦の説法(諸仏の称名)により、はじめて姿をあらわすのです。同じように、「弥陀の御もよほし」も「よきひとのおほせ」によってはじめてはたらきだします。

タグ:親鸞を読む
nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:学問
『歎異抄』を聞く(その68) ブログトップ