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『歎異抄』を聞く(その69) ブログトップ

もとよりしからしむる [『歎異抄』を聞く(その69)]

(6)もとよりしからしむる

 弥陀と釈迦、あるいは弥陀と「よきひと(善知識とよばれます)」の関係は、キリスト教などの一神教と比較してみるとよりはっきりしてきます。一神教においては、神のことばが直に人間に下されます。もちろん誰にでも下るわけではなく、特別な人(モーセやアブラハムなどで、このような人を神のことばを預かる人ということで預言者とよびます)だけですが、神はそうした選ばれた人に直接語りかけるのです。一神教の神は人格神であるというのはそういうことです。人間を絶対的に超越した存在ではありますが、でも人格をもち、人に語りかける神です。
 それに対して、「弥陀の御もよほし」は直にはたらくことはありません。かならず「よきひとのおほせ」を通してはたらくのです。「よきひとのおほせ」以外のどこかに「弥陀の御もよほし」そのものがあるわけではないということです。そして「よきひとのおほせ」というのも、よきひとが勝手に言っているのではなく、これまた向こうからうながされるようにしておほせられているのです。親鸞は「法然のおほせ」をこうむったのですが、その法然は「善導のおほせ」をこうむり、また善導は「道綽のおほせ」を、というように、どこまでいっても「向こうからのうながし」でしかないということ、それをあらわすために「弥陀の御もよほし」という言い回しがつかわれているという点に浄土他力思想の秘密があります。
 この秘密はなかなか明かされることはありませんが(間違って理解されますと、とんでもないことになってしまうからでしょう)、たとえば『末燈鈔』第5通で親鸞はその秘密をこんなふうに明かしています。「かたちもましまさぬやうをしらせんとて、はじめて弥陀仏とまふす、とぞききならひてさふらふ。弥陀仏は自然のやう(様)をしらせんれう(料、方便の意)なり」と。「自然のやう」とは「行者のはからひにあらずして」、「もとよりしからしむる」ということです。これらのことばからほの見えてきますのは、まずもって阿弥陀仏は何か実体的なもの(かたちあるもの)ではなく、ましてや一神教の人格神のような存在ではないということ、そして「もとよりしからしむる(どこまでも向こうからうながされる)」ことをあらわすための方便として阿弥陀仏と言われているだけだということです。

タグ:親鸞を読む
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