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ご縁がありましたら [『歎異抄』を聞く(その71)]

(8)ご縁がありましたら

 われもひとも「弥陀の御もよほし」にあづかって念仏しているだけですから、「わが弟子、ひとの弟子」などと争うのは「もてのほかの子細」であると述べたあと、「つくべき縁あればともなひ、はなるべき縁あれば、はなるることのあるをも」と続きます。ここにまた宿業、宿縁が顔を出しますが、「弥陀の御もよほし」を感じることと宿業を感じることとは別ものではないということが分かります。もよおしがあるということは縁があるということで、もよおしがないのは縁がないということです。
 よく「ご縁がありましたら」と言います。たとえばカルチャーセンターの講座を閉じるに当たり、「ご縁がありましたら、次の講座でまたお会いしましょう」などと挨拶します。そして次の講座がはじまったとき、見知った顔を見つけますと嬉しくなりますし、受講生が目に見えて減ってしまったりしますとがっかりします。口では「ご縁がありましたら」と言いながら、数が増えると自分の手柄のように思い、減ると自分の力のなさを悲嘆したりして、いずれにしても「わがちから」を気にしているのです。
 「つくべき縁あれば、ともなひ」はいいとしても、「はなるべき縁あれば、はなるることのある」とはなかなか平静なこころで言えるものではありません。無二の親友と思っていたのに、次第に疎遠になってしまったというようなとき、「縁がなかったのだ」とあっさり諦めることができるでしょうか。その理由に心当たりがあれば、どうにかして関係を修復しようと努力するでしょうし、わけが分からないときは、手紙をしたためてそのわけを聞くなどジタバタするのが普通で、「去る者おわず」とばかりに平然としているのは至難のわざです。
 しかし考えてみますと、「つくべき縁」あるときに、それを自分の手柄にしたり、「はなるべき縁」あるときには、悲嘆にくれたりするというのは、実際は「つくべき縁」も「はなるべき縁」も感じていないのに違いありません。どこまでも「わがちからによる」もの、「わがはからいのおかげ」と思っていて、だからこそ、うまくいけば優越感を感じ、思うようにいかないときは劣等感を感じたりするのです。

タグ:親鸞を読む
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