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『歎異抄』を聞く(その75) ブログトップ

第7章本文 [『歎異抄』を聞く(その75)]

          第8回―無碍の一道(第7章、第8章)

(1)第7章本文

 念仏者は無碍(むげ)の一道なり。そのいはれいかんとならば、信心の行者には天神・地祇(てんじん・じぎ)も敬伏(きょうぶく)し、魔界・外道(まかい・げどう)も障碍(しょうげ)することなし。罪悪も業報を感ずることあたはず、諸善もをよぶことなきゆゑに無碍の一道なりと云々。

 (現代語訳) 念仏の道は何の妨げもない道です。どうしてかと言いますと、信心を持っている人には、天神や地祇も平伏し、魔界や外道も邪魔立てすることはありません。どんなに悪いことをしてもその報いでこの道が通れなくなることはなく、どんなに善いこともこの道に勝ることはないのですから、何の妨げもない道です、とおっしゃいました。

 「念仏者は」と始まりますが、これは「念仏の行者は」ということではなく、この「者」を助詞の「は」と理解して、「念仏は無碍の一道なり」と読むのが妥当だと思います。漢文であらわせば「念仏者無碍一道也」となるでしょうから(序文を見ても分かりますように、唯円は漢文を自由に書ける教養人です)。
 この章では、念仏の人生には何の妨げもなく、自由自在であるといわれます。人生にはいたるところに障害物があるから、思うようにいかないものだ、とみるのが通り相場ですが、念仏の人生には障害となるものがなく、自由に生きられるというのです。どういうことでしょう。

タグ:親鸞を読む
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