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天神地祇・魔界外道 [『歎異抄』を聞く(その76)]

(2)天神地祇・魔界外道

 まず天神地祇と魔界外道が上げられます。世の幸・不幸をつかさどるものとしてこの二つが取り上げられたのでしょう。われらに幸せをもたらすのが天神地祇で、不幸せをもたらすのが魔界外道です。そこでわれらは神社にお参りしては天神地祇に幸せを願い、不幸をもたらす魔界外道の退散を願うのです。しかしそんなことをしなくても、念仏の道を歩む人には天神地祇も敬して平伏し、魔界外道もおのずから退散して妨げをなすことができないというのがここで言われていることです。
 ということは念仏には世の幸せを呼び、不幸せを遠ざける力があるということでしょうか。念仏は他のなにものにもまして現世利益があると。
 親鸞は「現世利益和讃」をつくり、たとえばこんなふうに詠います、「南無阿弥陀仏をとなふれば この世の利益きはもなし 流転輪廻のつみきえて 定業中夭(寿命の途中で亡くなること)のぞこりぬ」(『浄土和讃』)。念仏には現世利益がつまっていて、流転輪廻のもととなる罪も消え、また事故や病気で夭折することもないと言っています。また『教行信証』「信巻」では、念仏するものは「かならず現生に十種の益をう」と言い、そこには「冥衆護持の益」すなわち諸天善神に護られるという利益が上げられますし、また「転悪成善の益」つまりわれらのなす悪はすべて善に転じると言います。
 これらを見ますと、念仏にはこの上ない現世利益があると言っているように思えますが、これまでのところを読んできた(聞いてきた)われらとしますと、念仏は、この世の幸せを祈り、不幸せを退けようとしてするものでないことは明らかです。念仏は、たすかりようのないわれらがたすかるというメッセージをほれぼれと受けとめ、その嬉しさ、有難さがおのずから「南無阿弥陀仏」と口をついて出るものであって、現世利益のためにするのでないことは言うまでもありません。としますと「現世利益和讃」や「現生十種の益」をどう理解すればいいでしょう。

タグ:親鸞を読む
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