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現世利益のための念仏? [『歎異抄』を聞く(その77)]

(3)現世利益のための念仏?

 ここで「事前と事後」の補助線を入れる必要があります。念仏は、この世の幸せを得ようとして、「そのために」(事前に)するものでないことは言うまでもありません。がしかし、念仏することで、「その結果として」(事後に)この世の幸せを得ることになるというのが「現生十種の益」です。
 金子大栄氏はどこかで次のような分かりやすいたとえ話で解説しています。「ひとに親切をすれば幸せになれる」と言うとき、ふたつの意味があり、ひとつはこれをごく普通に、「親切をする」ことが原因となり「幸せになる」という結果がもたらされると理解することです。これを裏返せば、幸せになるためには親切をしなければならない、となります。さてしかしこの親切はほんものだろうか、と金子氏は言います。これは自分が幸せになるための親切で、「ためにする親切」、「計算づくの親切」ではないか、と。
 しかし、このことばにはもうひとつの意味があり、それは「親切をする」ことで思わず知らずに「幸せになる」ということであり、「親切をする」ことそのものが「幸せになる」ことだというのです。この親切こそ、それを受け取る人のこころを動かすのではないか、と金子氏は言います。同じように、「念仏する」ことによって「幸せになろう」とするのは、「ためにする念仏」、「計算づくの念仏」であるのに対して、「念仏する」ことで思わず知らずに「幸せになる」のが如来回向の他力念仏です。
 しかしながら、本願に遇えた喜びから念仏している人が、その結果としてこの世の幸せを得ているだろうかという疑問が残るに違いありません。本願を信じ念仏している人を見ても、だからといって病気が治るわけでもないし、仕事がうまくいっているわけでもないじゃないか、と。それはまったくおっしゃる通りで、念仏することで「現生十種の益」を得るというのは、病気が治ったり、家業がうまくいくということではありません。ここで改めて「この世の幸せ」というものについて考えてみる必要がありそうです。

タグ:親鸞を読む
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