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順境と逆境 [『歎異抄』を聞く(その78)]

(4)順境と逆境

 ものごとが思うようにいくのを順境と言い、反対に思うようにいかないのを逆境と言います。そして順境にあるのが幸せで、逆境にあるのが不幸せであると思うものです。それで言いますと、「現生十種の益」とは、念仏すればかならず順境が訪れるということではありません、逆境の試練をうけることもしばしばでしょう。でも、順境に恵まれようと、逆境にさらされようと、それに左右されることなく安心して生きていけるというのが「現生十種の益」です。
 ぼくらは順境にあるとき、それを自分の手柄のように思っておごりたかぶるものです。また逆境になりますと、途端にふさぎ込み、恨みつらみを周囲にまき散らすのではないでしょうか。本願に遇うことができ念仏の生活をするようになれば、そんなふうに順境・逆境に振り回されることなく落ち着いてものごとに対処していけるようになる、というのが「念仏は無碍の一道」ということです。念仏の生活のなかで、順境も逆境も宿業によると思えるようになりますと、何ものにも動じることのない安心がえられるのです。
 先回、己れの人生は「わがちからで切り拓いてきた」と思うのと、己れの人生は「歴史のなかで育まれてきた」と思うのとのコントラストを、高村光太郎の詩で見てきました。若い頃は「わがちから」を信じ、「僕の前に道はない。僕の後ろに道は出来る」と考えてきたが、人生の経験を積むとともに、「子供の時のおじいさんが、父が母がそこに居た。少年の日の家の雲霧が部屋一ぱいに立ちこめ」るのを感じるようになった。そこには何か見えない力でつくられてきた己れを感じている光太郎がいます。
 この感覚は「順境も逆境も宿業による」という感覚とよく似ています。ただ光太郎の場合、それが「真珠湾の日」に「天皇あやうし」というかたちをとっているところに問題の切っ先がはっきり現れています。彼が「天皇あやうし」と思ったとき、自分を育んでくれた歴史の力と自分とが一体となっているのを感じ、だからこそ「身をすてるほか今はない。陛下をまもろう」と思ったのですが、これは「順境にも逆境に動ずることのない安心」とは似て非なるものです。

タグ:親鸞を読む
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